箱根山崎の戦い

251 ~ 253 / 330ページ
 その後、胤明は幕末の内乱に巻き込まれていきます。旧幕府軍は、江戸城を無血開城しましたが、脱走部隊が関東一円で徹底抗戦を展開していました。
その頃、小田原藩は新政府に恭順を示していました。慶応四年(一八六八)閏四月十二日請西(じょうざい)藩(木更津一万石)を脱藩した元藩主林昌之介忠崇(ただたか)が遊撃隊(人見勝太郎(ひとみかつたろう)(遊撃隊第一隊長、のち九代茨城県知事人見寧(やすし))・伊庭八郎(いばはちろう)(剣客、遊撃隊第二隊長)他三百人)との連携を申し入れてきました。小田原藩も内心動揺しましたが丁重に断っています。
 しかし、その後、彰義隊が勝利したとの誤った情報が小田原藩に入り、藩内佐幕派の主導で、遊撃隊と和睦します。督戦に来ていた大総督府の軍監中井範五郎(はんごろう)が遊撃隊士に殺害されました。報せに驚いた江戸屋敷から藩監察職中垣齊宮(なかがきさいぐう)が急遽小田原に到着、中垣の彰義隊壊滅の情報と決死の説得に、藩主忠礼(ただのり)は藩論を新政府側に戻しました。
 藩は遊撃隊を退去させるため、五百両と小銃四十挺それに弾薬を差し出しました(『小田原市史』)。遊撃隊側の資料では、千五百両・玄米二百俵・酒二十樽、等々と記しています。新政府側に就いた小田原藩を見限った遊撃隊は、箱根まで戻らず三枚橋から入生田(いりうだ)村山崎(箱根町山崎)までの東海道を封鎖しました。小田原藩の先手山本組の番頭山本主計介(かずえのすけ)が纏(まと)めた「戊辰之役報告書類」に「五月二十五日朝五ツ時頃、御使番片切角かく衛えヲ以テ、松下舎人(とねり)(足軽頭)ト共ニ相馬清四郎先手ノ援兵ヲ仰セ付ツケラレ候ニ付、直様出陣シ」とあり、胤明もこの「箱根山崎の戦い」で戦っています。もっとも、後詰の新政府軍が見守る中での戦闘で、戦いづらかったと想像されます。なお、新政府軍の宿舎として、小田原藩士の屋敷が使われ、相馬清四郎の家屋敷も宿陣に相成りました(『片岡文書』)。
 戦闘は、銃撃戦で始まり、三枚橋(箱根町湯本)では、剣豪伊庭八郎が、二十歳の小田原藩の剣士高橋藤太郎に左手首を皮一枚残して斬られる重傷を負いました。高橋は至近距離から銃弾に貫かれて即死し伊庭は虎口を脱して、湯本茶屋を放火し畑宿(はたじゅく)(箱根町畑宿)へ撤退しました。林・人見・伊庭ら遊撃隊の本隊は網代湾から榎本武揚(えのもとたけあき)の率いる軍艦に拾われ奥州目指して逃げて行きました。

箱根関所跡(神奈川箱根町)

 そして、「戊辰戦争」の最終ラウンドを箱舘で戦います。榎本政権の「蝦夷共和国」の総裁に榎本武揚、陸軍奉行に、大鳥圭介(おおとりけいすけ)、陸軍奉行並に土方歳三(ひじかたとしぞう)、松前奉行に人見勝太郎が就任、隻腕(せきわん)の伊庭八郎は歩兵頭並・遊撃隊隊長を任せられました。
 遊撃隊の戦死者数は不明ですが、大蓮寺(だいれんじ)(小田原市南町二)の「戦死之墓」には二十二名、早雲寺(小田原市湯本)の「遊撃隊戦死主墓」には、九名の名が刻まれています。建立者は「明治十三年(一八八〇)六月、静岡県士族、人見寧(この年茨城県令となる)」。人見も「山崎の戦い」の戦没者を弔ったのでしょう。小田原側の戦死者は七名です(『大久保忠良家記』)。

山崎の古戦場(箱根町山崎)

 小田原藩の混乱から、佐幕派の家老渡邊了叟(りょうそう)は責任をとり割腹して果てました。藩主の暴走を阻止できなかった家老岩瀬大江進(いわせおおえのしん)も切腹して尊い犠牲を出し、小田原藩の窮地を救うことになります。
 
 胤明は無事に明治維新を迎え、明治十三年(一八八〇)六十五歳で没しました。墓は誓願寺にあります。戒名は「松旭院煙林雲祥居士」。なお、「相馬胤明の墓」が、小田原市郷土文化館研究誌発行の『小田原の金石文(二)』に掲載され、小田原市では、著名人扱いにされています。それによりますと、明治維新後、専ら画筆に専念したらしく、号は雲祥、または松旭庵といいます。
 胤明の拝領屋敷が、小田原城絵図「文久図」(小田原城天守閣所蔵)に掲載されています。お濠に面した北西の角地です。同図に「相馬清四郎九百七拾六坪壱号」と記されています。敷地千坪の堂々たる武家屋敷です。

相馬胤明屋敷(小田原市栄町1)
(出典:「文久図」)