補記 誓願寺の相馬家の墓について

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 小田原相馬氏の菩提寺は、常光寺と誓願寺の二寺を確認できましたが、誓願寺の墓石に新しい追刻がされており、複雑になっていますので、整理して報告したいと思います。
 何分にも、墓石の文字を解読するのは難儀でして、多々誤りもあろうかと存じますが、浅学非才もかえりみず纏めました。
 住職の丁寧な教授に感謝しております。

相馬家の墓域配置

①「相馬胤英夫妻の墓」(相馬胤昌建之) 笠付方柱型
明治以降、興精院(相馬胤盈 大正三年没)
芳清院・深考院・真如院の四名を合葬しています。

 

②「相馬胤昌夫妻の墓」(相馬胤昌建立) 笠付方
胤昌は、「寄合」席で、「寺社奉行」を兼務、湯本堰新堰に貢献、「番頭」席の加藤内膳の養悴となる。奥方は胤昌に先立ち亡くなったが、墓は胤昌自身で建てたが、のち、胤昌も合葬。

 

③「相馬胤親夫妻の墓」(相馬胤吉建立) 笠付方柱型
胤親は、胤吉の長子ですが、病身だったため家を継げず、末の胤明が家を継ぎました。墓は奥方と一緒に葬られています。奥方は、長野弥十郎の妹娶りました。墓は胤吉が建立しましたが、奥方のために建てた墓で、のちに、胤親も一緒に葬られたと思われます。

 

④「相馬胤則の墓」(相馬胤吉建立カ) 方柱型
胤則は、胤吉の次男ですが、父胤吉・兄胤親に先立ち早世しました。錦質良繡童女は、姉妹カ。

 

⑤「相馬胤鎮の墓」(相馬胤明建立) 笠付方柱型
胤親の長男ですが、病身のため、叔父の胤明に家督を譲りました。

 

⑥「相馬胤吉夫妻の墓」(相馬胤明建立) 笠付方柱型
胤吉は、歴代当主の通称である「七左衛門」を名乗っています。墓は家を継いだ、胤明が建てました。

 

⑦「相馬胤親後妻の墓」(相馬胤明建立) 笠付方柱型
 明治十一年(一八七八)、相馬胤盈の長女を合葬しています。胤親ははじめ長野弥十郎の妹を娶りましたが、文政十三年に先出たれ、後妻に梅原九郎左衛門の娘を迎えています。

 

⑧「相馬胤明の墓」(建立者不明) 笠付方柱型
 墓石裏面に、達筆な詩歌は胤明の作です。松旭院は胤明で、松寿院は妻のソノで、明治三十八年に亡くなっています。自生禅童子は長男の□之介で(金偏に受)、素青童子は、次男の亀之助、奇雲童子は、四男の喜四郎で、それぞれ父母に先立ち早世しています。なお、嫡子の隆之助は三男に該当します。