土岐氏は、美濃国の豪族で、清和源氏頼光流、南北朝時代の美濃国守護家、戦国時代の美濃守護は傀儡(かいらい)に過ぎず、やがて新参の斎藤道三が頭角を現し、守護の土岐政頼(まさより)を追放して、弟の頼芸(よりなり)を第十三代美濃守護に据えました。
天文二十年(一五五一)、頼芸は道三に美濃国を追われ、彼は、弟である常陸国の江戸崎城(稲敷市江戸崎)の土岐原治頼(はるより)や、上総国の同族(万喜(まんき)城(いすみ市万木)の土岐義成カ)に、身を寄せたといいます。
土岐定政の父、定明(さだあきら)は斎藤道三と戦って討死し、一家は離散、二歳の定政は三河国へ逃れ母方伯父の菅沼(すがぬま)定仙に養われ、十四歳の時、家康に近侍し菅沼を名乗ります。その後、家康に従い各地を歴戦し、天正十八年(一五九〇)九月、領地を下総国相馬郡に移され、守屋(この頃は守屋・森屋などが表記され寛政二十年ごろから守谷に定着します)を居所としています。
土岐家略系図
土岐桔梗
翌年の九戸政実(くのへまさざね)の南部氏嫡流争いの「九戸一揆」で、定政は豊臣旗下の仕置軍に参戦し、一の迫(はさま)城(栗原市一迫町)を攻略・守衛しました。九戸城(二戸(にのへ)市福岡)の落城をもって、豊臣秀吉の奥州再仕置が完結し、全国統一がここに達成しました。
さらに、文禄元年(一五九二)の「文禄の役」では名護屋(唐津市鎮西町)へ出陣し、同二年、家康の仰せにより、姓を土岐に復し、従五位下山城守を叙任します。慶長二年(一五九七)守屋に於いて没しました。彼地(守谷)の増園寺(ぞうえんじ)に埋葬、同寺は定政が開基した寺院で、勝善寺・不動院と共に土岐家の御家中寺と称され、これら三寺は移封のたびに引き移される寺でした。のち、三代頼行が出羽国上山(かみのやま)へ移封の時も、この寺を軽井沢(上山市)へ移築しています。その後、三代後の頼殷(よりたか)の時、定政の墓は、品川東海寺の春雨庵(しゅんうあん)(現、北品川春雨寺(しゅんうじ))に改葬されています。
定政は戦いに明け暮れ、領内の経営に当る時間的余裕はなく、僅かに、守谷市本町の小字に「足軽町」とありますが、土岐氏の時、足軽屋敷が在った処といいます(『改定増補守谷志』)。
なお、「守谷古城跡絵図」などに、「蔵園寺」とありますが、正式には「増園寺」です。