元和五年(一六一九)、十二歳で父の摂津国高槻城の遺領を継ぎますが、幼年たるにより、高槻改め下総国相馬郡にて一万石を賜ります。同七年、頼行は愛宕神社(守谷市本町)に、華麗なる社殿・拝殿を寄進しましたが、残念ながら、大正二年(一九一三)に焼失しています。社殿は六間四面、雄渾(ゆうこん)な彩色彫刻も施され、拝殿には花鳥画の格天井も掲げられ壮観を示していたといいます。この時、土岐家家老の井上九左衛門・賀藤久大夫が鰐口を寄進しています。『土岐侯御代家臣分限記』によりますと、両名共、高三〇〇石です。この鰐口は、守谷市文化財(工芸物)に指定され、愛宕神社で保管されています。(P.304参照)
守谷古城跡絵図」にある「九左衛門屋敷(清水曲輪)」は、この井上が住んでいた場所です。
寛永五年(一六二八)、祖父定政の忠孝により、新恩一万五千石を賜って、二万五千石をもって、出羽国上山城(上山市元城内)転封しました。同六年六月、「紫衣事件」で沢庵宗彭(そうほう)が流罪(るざい)となり、上山城預かりとなりました。頼行は、城の南の高台に、草庵を建てて厚遇し、沢庵はこの寓居を春雨庵(はるさめあん)と名付けて愛しました。頼行は、上山入部とともに、上山城と城下町の整備に着手し、防備の万全を期すため社寺の移転・建立などを行い、近世上山発展の基礎を築きました。貞享元年(一六八四)没、品川東海寺の春雨庵(しゅんうあん)に埋葬されています。
東海寺(東京都品川区)は、寛永十六年(一六三九)、将軍家光が沢庵和尚のために建立された寺院で、朱印地も五百石でした。創建当時の東海寺は、寺域は約四万七千坪と広大でしたが、その中は草ぼうぼうの状態であったとのことです。沢庵在世時の塔頭は五院を数え、玄性院(げんしょういん)(開山沢庵・開基堀田正盛)を始め春雨庵(開山沢庵・開基土岐頼行)も名を連ねています。頼行と沢庵との付き合いの好さが察しられます。頼行は、春雨庵(のち春雨寺(しゅんうじ))を土岐家代々の菩提寺として、自ら開基となったとされます。頼行の墓の両脇には、初代定政と孫の五代頼稔の墓が建てられています。なお、沢庵和尚の墓は春雨寺に隣接する東海寺大山墓地に在ります。墓石は自然石で「沢庵石」と呼ばれています。
土岐家の墓(春雨寺 品川区北品川)
・旗本伊丹康勝(やすかつ)(一五七五~一六五三)在任期間 寛永五年(一六二八)~寛永十年(一六三三) 五年間
伊丹氏は、清和源氏頼光流、康勝は天正十四年(一五八六)将軍秀忠に近侍し、寛永五年(一六二八)下総国相馬郡の内に於いて九千石を加増されます。土岐氏の守谷領一万石は、嫡男の勝長の一千石(相馬郡内守谷村)と併せ、移されたと考えます。康勝は、移築後の八坂神社の社殿を修繕しました。康勝の娘は、土岐頼行の室です。同十年、加恩三千石を賜い下総の采地(さいち)を改め、甲斐国山梨郡(山梨市、他)で一万二千石を領し、康勝の代に一介の旗本から大名へと栄進しました。同郡徳美(とくみ)(甲州市)を居所とします。承応二年(一六五三)に没して勝長が遺領を継ぎます。ところが、五代勝守のとき、突然、失心して自殺してしまいます。この時の綱吉政権下に於ける政治的な画策によって大名取潰しがあったのか、明らかでありませんが、この頃、発狂を理由に改易された大名は五人もおり、勝守もその一人でした。
伊丹家略系図
・天領代官支配(伊丹勝長・勝元・彦左衛門)在任期間寛永十年(一六三三)~寛永十五年(一六三八)五年間
寛永十年(一六三三)から五年間守谷は空城となり、幕府直轄地となり代官支配となります。代官は、伊丹播磨守・伊丹理(利)右衛門・伊丹彦左衛門(『守谷志』)の名がありますが、伊丹家の『寛政譜』によりますと、伊丹播磨守は勝長(かつなが)、理右衛門は勝長の三男理左衛門勝元(かつも)と、彦左衛門は不詳です。
・松本藩主堀田正盛(まさもり)(一六〇八~一六五一)在任期間 寛永十五年(一六三八)~寛永十九年(一六四二) 四年間
堀田家は、武内宿禰を祖とする紀氏で、正盛父の正吉の妻は春日局(かすがのつぼね)の義理の娘です。春日局は三代将軍家光の乳母として家光の将軍擁立に功があり、大奥に権勢を振るいました。大奥は春日局がつくったとされています。正吉の嫡子正盛は、家光に取り立てられ「老中」に取り立てられました。
堀田家略年譜
堅木瓜
寛永十二年(一六三五)、正盛は二万石加増され、武蔵川越城三万五千石を賜わり「老中」を解かれて、この日、正盛、川越を改め六万五千石の加恩あり、信濃国松本城主(松本市丸の内)十万石へ移ります。領知は、松本七万石、および、安房勝山、下総守谷、北條(つくば市)、上野板鼻、同赤堀など三万石。
ここで、注目したいのは、松本領七万石のほか、その他三万石の中に、下総守谷を領知としている事です。
ここに、地元守谷を支配していたという史料が、三点遺されていますのでご紹介します。(P.301)
①寛永十六年(一六三九)「下総ノ国相馬領野木崎村卯物成割付之事」(『椎名家文書』)・・守谷市野木崎村名主
②寛永十七年(一六四〇)「下総国相馬領野木崎村辰物成割付」(『椎名家文書』)
③寛永十七年(一六四〇)「下総国相馬領大鹿取出村辰ノ物成割付」(染野修家文書)・・・・取手市本陣の名主
この年貢割付状の指出人は、①が多(賀)四郎兵衛・潮(田)儀太夫・金(井)七左衛門、②③は、多賀四郎兵衛・潮田儀大夫です。
この三名の名は、「天保改訂 紀氏雑録」/『千葉県史料近世編7』に記載されています。
「 宗卜様、
御成之節、御目見仕候覚
家老 植松庄左衛門
年寄 植松主殿介
同 多賀四郎兵衛
同 潮田儀太夫
同 森弥五兵衛
同 金井七左衛門
番頭 外池甚五左衛門 」
ただし、宗卜様とは堀田正盛侯、御目見仕候覚とは寛永十五年(一六三八)十一月六日。
史料に見るように、この三名は松本藩の重臣です。という事は、寛永十五年(一六三八)から松本を去る同十九年(一六四二)まで、野木崎村を領知していたことになります。相馬領のうち、野木崎村と大鹿取出村の二村しか史料が見出せませんでしたが、土岐三代と旗本伊丹康勝に引き継がれた守谷領全域が、松本藩堀田正盛支配と推定されます。
注目すべきは、畑方年貢は永銭で換算されるのが一般的ですが、①②③共、京銭(きょうせん)(あるいは中世の京銭(きんせん))決済です。掘田正盛の前任者、松本藩松平直政(なおまさ)時代には、松本にも銭座がありましたので、松本では鐚銭(びたせん)は使われなかったと思います。ただし、当時の佐久郡の天領では京銭決済です。江戸幕府は、慶長九年(一六〇四)鐚四銭=永楽一銭で通用すべしと発令しています(『徳川実紀』)。正盛は、永銭の流通量を案じて、京銭を採用したと思われます。正盛の寛永十八、十九年(一六四一、一六四二)の年貢割付状は見出せず、寛永二十年(一六四三)の割付状は永銭を採用しています。
寛永十六年(一六三九)七月、正盛は東海寺に一宇を建て臨川院と名付け、のち、玄性院に改めています。ちなみに正盛の戒名は「玄性院殿心陰宗卜大居士」です。一方、平将門の戒名は多々ありますが、柏市藤ケ谷の持法院(じほういん)にある平将門供養塔の戒名は「玄性院殿信陰宗卜大居士」です。一字違いとは驚きですね。
同十七年(一六四〇)六月、武蔵国仙波(太田市世良田(せだら))の長楽寺(ちょうらくじ)境内に、日光東照宮の神殿造営なって、長楽寺住職の天海の発願により東照宮が遷宮、この東照宮は日光の旧奥社の拝殿を移築したもので、国指定重要文化財です。この長楽寺は、新田義貞の四男得川義季(とくがわよしすえ)の開基で、世良田氏を称しました。後に徳川家康はその子孫を名乗っています。家康は、始め藤原氏でしたが、これにより清和源氏新田氏の末流を称するようになります。
・佐倉藩主時代の堀田正盛(一六〇八~一六五一)在任期間 寛永十九年(一六四二)~慶安四年(一六五一) 九年間
寛永十九年(一六四二)、正盛は松本を転じ、一万石を加増され、計十一万石の下総佐倉城主(佐倉市城内町)となって転封します。相馬領は、松本藩からの引継ぎの支配です。
慶安二年(一六四九)三月、紅葉山御宮(品川神社東京都品川区)に石の鳥居と水盤を献ず(品川区指定有形文化財)。同四年(一六五一)家光崩御により、殉死しました。東叡山の現龍院(上野公園)に葬られる。遺領は嫡子正信が引き継ぎ、弟の正俊に一万石、正英に五千石、勝直に三千石を分かち与えました。