④第四代守谷藩主堀田正俊(まさとし)(一六三四~一六八四)

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在任期間 慶安四年(一六五一)~寛文七年(一六六七) 十六年間
 寛永十二年(一六三五)将軍家光の命により、二歳の時、春日局の養子となり、八歳まで大奥で育てられたと云う、特異な経歴をもっています。寛永二十年(一六四三)養母春日局の遺領三千石を継承します。慶安四年(一六五一)父正盛の遺領のうち、一万石を分知され、春日局の遺領三千石と併せて一万三千石を知行し、第四代守谷藩主として、守谷に陣屋を構えました。正俊の陣屋規模が、『堀田家三代記』に記録されています。
     家老 若林杢左衛門五百石
     年寄 岡勘兵衛二百五十石
        渡辺弥一兵衛・河原伝右衛門・飯尾市左衛門・天野与右衛門・庄田精右衛門以上二百石
        このほか、百五十石 五人、百二十石 二人、百石 五人、八十石 二人、七十石 二人、
             六十石 一人、十五人扶持一人、十人扶持二人、足軽三十二人
足軽・小者まで数えて、家臣五十九人の小世帯でした。
 正俊の屋敷・陣屋の敷地面積が、当時の守谷町の年貢割付状で算出できます。守谷に入部した慶安四年(一六五一)当時、屋敷・御鷹部屋四、八〇〇坪及び、御陣屋敷・御蔵屋敷約八〇〇坪が永引されています。割付状の差出所は家老若林杢左衛門及び庄田孫兵衛です(「守谷町卯御物成可納割付事」)。御鷹部屋とは、正俊は、まだ放鷹(ほうよう)を許されていないので、寛永十年(一六三三)に放鷹を許され、鷹二羽を賜りました父正盛のものと思います。
 陣屋跡は、明治迅速測図の原図といわれる「守谷町」図に描かれています。正俊陣屋跡とは限りませんが、水田の中に描かれ、守谷小学校の校庭内で、清水門の手前に当ります。
 万治三年(一六六〇)、兄正信が、「知恵伊豆」といわれた松平信綱(のぶつな)弾劾の書を差し出し、国許の佐倉へ無断帰国してしまいました。堀田家は参勤交代の義務を免じられ、定府がゆるされていた処、幕府は正信を狂人扱いとして、弟の正俊の守谷陣屋に移させました。その後、佐倉は没収され、正信は実弟の信州飯田城(飯田市追手町)の脇坂安政(やすまさ)の許へ預けられ、最後は将軍家綱(いえつな)の崩御を聞き、鋏で自殺しています。
 この正信の発狂は、佐倉惣五郎(宗吾)の刑死の祟りとの噂が広まっていました。堀田正盛は新田開発に熱をいれ、正信は、年貢が厳しく幕府領と較べ一〇%程高かったといいます。佐倉の農民は堀田家の江戸屋敷に訴えましたが埒が明かず、止む無く将軍家綱に、惣五郎(そうごろう)(通称、佐倉宗吾(さくらそうご))一人で直訴しましたが、惣五郎は処刑、妻も同罪、四人の子供まで死罪を申し渡されました。
 寛文三年(一六六三)、正俊は焼けた八坂神社(当時は牛頭天王社・守谷市本町)を再建しましたが、これも二年後に火災に遭って焼失してしまいました。同四年(一六六四)、正俊は海禅寺(守谷市高野)へ自ら撰文した「下総国海禅寺縁起」一巻を寄進しています。これは現在、守谷市指定文化財になっています(P.296参照)。
 土岐氏がつくった足軽町と道路を挟み、新屋敷の小字が在りますが、堀田氏在城の時、新屋敷は士族在住の所とされ、銚子街道の町の入口に当り、今、食事処「冨士」が営業中です。近世初頭のまちづくりの町名の遺蹟です。
 やがて四年後の寛文七年(一六六七)、正俊は七千石加増され、上野国安中(安中市)二万石の城持大名に採り立てられました。守谷での十六年間は、兄正信の幕政批判が祟って、永い雌伏に耐えねばなりませんでした。
 その後の安中時代の正俊は、卓越した政治力を発揮して善政を施したといいます。寛文十年(一六七〇)「若年寄」に進み、延宝七年(一六七九)「老中」を拝命、加増があって計四万石になり、従四位下に昇ります。翌八年(一六八〇)は、正俊にとっては大きな転機が訪れました。五月八日将軍家綱が病死し、新将軍には京から親王を迎えようとする大老酒井忠清に対して、正俊が強引に推した弟の館林城主の綱吉(つなよし)が就任しました。世にいう「宮将軍擁立事件」を制した正俊は、綱吉とその生母の桂昌院(けいしょういん)から感謝され、一躍幕政の第一人者へと躍り出ました。天和元年(一六八一)安中改め、下総国古河を賜わり、父正盛も成し得なかった「大老」に挙げられ、「少将」を拝命します。加増もあって計十三万石となりました。
 天和二年(一六八二)八月、この日、将軍綱吉の襲職(しゅうしょく)祝賀に朝鮮通信使の正使らが江戸城に入り、翌二十八日、大老堀田正俊は、綱吉の子徳松(とくまつ)の名代として漢文による「筆談唱和」を行い、儒学を中心とする政治思想に言及しました(「天和度朝鮮通信使と大老・堀田正俊の筆談唱和」)。「下総国海禅寺縁起」の撰文を見ても、正俊は当時一流の高い教養を有していたことが窺われます。

下総国海禅寺縁起(海禅寺所蔵)

 しかし、好事魔多し貞享元年(一六八四)八月、正俊は殿中の御用部屋にて、若年寄の稲葉正休(まさやす)に脇差で刺され、まもなく絶命しました。正休は、近くにいた老中大久保忠朝(ただとも)・阿部正武(まさたけ)・戸田忠昌(ただまさ)によって滅多斬りにされました。殿中での忍傷は、切腹・御家断絶と定められているので、正休は当然御家断絶処分ですが、他の人達はお構い無しでした。また、正休は前夜に書いた遺書に「将軍家のご厚恩に報じ奉る」と記しているので、綱吉の命で正俊を刺殺したと噂されたといいます。正休が殺されたのも口封じといいます。この頃、綱吉と桂昌院は「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」に反対の正俊を極端に嫌い大老職を罷免しようとしていました。
 ところで、正俊が刺殺される二年前、新井白石(はくせき)は正俊に儒臣として仕えておりました。堀田家は、跡を継いだ正仲も減封の上、山形へ転封させられました。白石は、不運に見舞われ続けている主君を見限ることなく、七年間勤めました。その白石は第八回朝鮮通信使の聘礼(へいれい)改革を断行しています。
 正俊の遺骸は、上野の現龍院の父正盛の傍らに葬られました。まもなく綱吉の寛永寺家綱御廟への参詣が有りましたが、その道筋にある正俊の墓が綱吉の御駕篭を見下ろしているように見え、気分を害したと漏れ聞いた子の正仲(まさなか)は、一夜の内に、台石をひとつ取除いて三、四〇センチ程低くしました。その後、正俊の墓が寛永寺に在る事を聞いた綱吉は、その方向に屏風を二隻立てさせたと聞き、正仲は、またまた一夜の内に、墓を浅草金龍寺(きんりゅうじ)(東京都台東区寿)の伯父正信の墓近くに改葬しました。
 安城山不矜院甚大寺(ふきゅういんじんだいじ)(佐倉市新町)は、正俊の曾孫正亮(まさすけ)が佐倉へ移封するに伴い、延享三年(一七四六)山形城下から佐倉の現在地にうつされました。正俊の墓は、大正年間この地に移され、現在、正俊・正睦・正倫の墓が建てられ、千葉県史跡に指定されています。
 この正俊の墓の流転が、時代の権力者に翻弄される大名家の哀れさを感じさせます。
 
・天領 代官支配(曽根五郎右(左)衛門・雨宮勘兵衛)在任期間 寛文七年(一六六七)~寛文八年(一六六八) 一年間

堀田正俊の墓(甚大寺佐倉市新町)