⑤第五代守谷藩主酒井忠挙(ただたか)(一六四八~一七二〇)

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在任期間 寛文八年(一六六八)~天和(てんな)元年(一六八一) 十三年
 酒井氏は、清和源氏義家流、忠挙の父忠清(ただきよ)は、寛文六年(一六六六)から「大老」に就き、四代将軍家綱は病弱で、「左様せい様」と陰口をいわれる程で実権は忠清が握り、屋敷が江戸城の大手門前ば下馬札(げばふだ)にあったことから巷ちまたでは「下馬将軍」と呼ばれていました。
 忠挙は、十四歳で従五位下河内守を叙任し、二十一歳で部屋住みのまま、下総国・武蔵国・相模国・上野国・常陸国五ケ国八ケ郡で二万石与えられました。その内の一万石が下総国守谷近辺にあり、守谷に陣屋を構えています。寛文十年(一六七〇)初めて守谷に入部、翌年には、正八幡宮(守谷市本町)に詣で、鏑矢を奉納したといいます。同十一年(一六七一)には、焼失した八坂神社を再造営しました。
 忠挙の施政の特徴は、年貢増徴策にあります。検地は、同十二年(一六七二)に第一回目が行われ、続いて延宝三年(一六七五)、延宝四年、延宝七年(一六七九)と合計四回の検地を行っています。狙いは、利根川の堤外地で、天候によっては、直ぐ水に浸かり収穫が不安定な田畑が、年貢負担の対象になりました。野木崎村の場合、田畑は寛文七年(一六六七)天領の代官支配時に較べ、延宝七年(一六七九)で二倍に増加しています。これは、幕府の寛文期には新利根川の開削と野地開発があったためですが、利根川流域の村々の苦労が思いやられます。

酒井氏略年譜

 忠挙は後に厩橋(うまやはし)(前橋)城主の時に、宝永四年(一七〇七)、尾形光琳(こうりん)を十人扶持、さらに翌年には二十人扶持を与えて、「江戸御抱絵師」としています。御用絵師の給料の相場は、将軍に御目見できる奥絵師の場合、二〇〇石二十人扶持に、拝領屋敷が与えられました。表絵師の通例は、二十人扶持で、拝領屋敷無しでした。ですから、酒井家は厚遇したといえますが、何分、尾形光琳の事、京の友人の上嶋源丞(げんじょう)に宛てた手紙に、「大名家へ出仕して多く絵を描いていると、思ったより報酬が少なく草臥(くたび)れたこと、気を遣う大名家への出仕で、手足もしびれてきたこと」などと書いています。この書状は宝永五年(一七〇八)に書かれた光琳の書状と考察されています(『尾形光琳』)。
 ところで、酒井家から「江戸琳派(りんぱ)」の酒井抱一(ほういつ)を輩出しています。抱一は、姫路藩主(姫路市本町)酒井忠以(ただざね)の弟で、実名は忠因(ただなお)、絵が好きで、同家伝来の光琳画に感化され、京都とは違った「江戸琳派」を創始しました。忠挙の絵を愛するDNAは、抱一に引き継がれ開花しました。

姫路剣酢漿(ひめじけんかたばみ)

 名門出の忠挙が「老中」に成れなかったのは、父忠清の「宮将軍擁立事件」か、転機が訪れるのは、忠挙から十代も後の忠学(ただのり)が将軍家斉(いえなり)の息女を室としたため、家格が上がり、忠績(ただしげ)が「大老」職を得、忠惇(ただとし)は「老中」として幕閣に重きを為しました。
 酒井忠挙を最後として、守谷城は廃城となりました。城はただ草の茂るに任せ、終に千年の旧跡として、その名を止むるのみに至ったと、『改定増補守谷志』に記述されています。土岐侯移封後、巷では、「守谷も町なら田螺(たにし)も魚」と揶揄されるようになっています。もともと、守谷は「城下町」とは云い難く、「大名」の家格は、国持大名(十万石以上)、城持大名(三万石以上)、無城大名(一万石以上)とクラス分けされますが、この伝で行きますと、守谷藩主は無城大名になります。ちなみに、『元禄郷帳』で守谷町、『天保郷帳』では守谷村です。
 
・天領 代官支配(近山(松)六左衛門。萬年長十(次)郎)在任期間 天和元年(一六八一)~天和二年(一六八二) 二年間

酒井忠挙の墓(龍海院 前橋市)