一色氏は、足利氏の支流で、戦国時代は古河公方を支えて活躍していました、一色義直(よしなお)は、天正十九年(一五九一)徳川家康より武蔵国幸手(幸手市)に於いて、五千石余を拝領し旗本となりました。一色氏は、慶長六年(一六〇一)頃、下総国相馬郡ほかに知行替があり、木野崎城(野田市木野崎)に居館を構えました。
一色氏略系譜
一色氏の知行地は、坂東市・常総市のほか、守谷市の板戸井村・大柏村・大山村・大木村の四ケ村です。大木村は守谷藩主土岐定義との相給地です。元禄十一年(一六九八)五代直與は、下総国の知行地を改めて三河国設楽郡長篠村(新城市)へ移りました。一色氏の知行期間は九十七年間です。
寛永十四年(一六三七)、直為は、清瀧寺(守谷市板戸井)に対し、新畑三反余を寄進しています(P.300参照)。
一色氏は鎌倉の荏柄(えがら)天神社を篤く崇拝していましたので、知行地には必ず荏柄天神社を祀っています。直房の後室は、守谷市学校給食センター前にある天神社(守谷市大柏、地元では天満宮)を江戸時代に分霊しています(『大野村発達史』)。いま、ふれあい道路の交差点「天神」にその名を残しています。
直與は、元禄二年(一六八九)大圓寺(守谷市大木)本尊の、釈迦にあった牟尼仏を大修理しました。
この仏像はケヤキの一本造りで像高一四六センチと、かなり大きく、平安末期か鎌倉初期の作とみられますが作者は不明です。平成二十六年(二〇一四)一月に「木造釈迦如来坐像」は茨城県指定文化財になりました。
同寺に、一色氏の位牌が安置されています。義直及び直朝・直朝妻カ・照直の二柱です。境内墓地に、義直・直氏・直房・直賢・直休の墓があります。
直休は英才だったらしく甲府勤番支配・普請奉行・長崎奉行・勘定奉行などを歴任し、幕末の嘉永五年(一八五二)田安家の家老を勤めています。直休は、一色氏の菩提寺である大園寺を訪ね先祖の墓参りの際、自分も一緒に葬って貰うよう住職に頼んだと思われます(P.305参照)。
・関宿藩牧野成貞(なりさだ)・成春(なりはる)在職期間 天和二年(一六八二)~宝永二年(一七〇五) 二十三年間
酒井忠挙が守谷を去って翌年の天和二年(一六八二)一月、牧野成貞は、神田館(綱吉)の家老職でしたが、綱吉の将軍就任にともない、将軍の側用人に出世しました。所領も二万石加増され、守谷領の地は牧野領となりました。そして、元禄元年(一六九五)には、合計七万三千石加増され、一代で二千石から七万三千石という破格の昇進です。
成貞は、五万三千石で下総国関宿城を与えられました。元禄八年(一六九五)、家督を養子の成春へ譲りました。その成春も、宝永二年(一七〇五)三河国吉田城へ転封した後、笠間藩に移ります。守谷とは縁が切れたことになります。但し、家中に相馬氏の関係者と思しき者がおります。笠間藩士船橋平八郎の子として名は肇、新選組隊士時代は主計かずえ、函館戦争の時は土方歳三の戦死後に新選組最後の隊長として相馬主殿とのもを名乗っています(『霊山歴史館紀要第七巻)/霊山歴史館)。諱は胤貫(たねつら)と称しています(『幕末維新人名事典』)。「胤」を用いていますので、相馬氏の関係者かと思われます。延享四年(一七四七)、牧下総相馬氏の通字に野貞通(さだみち)のとき、笠間藩へ転封していますので、守谷藩時代の家臣だった可能性がありますが、これ以上推測できません。
・関宿藩 久世(くぜ)氏 在任期間 宝永二年(一七〇五)~慶応四年(一八六八) 一六三年間
牧野氏に替わって久世重之が関宿城に入城、正徳三年(一七一三)「老中」に就き、享保三年(一七一八)一万石加増され都合、六万石を領しました。その後、久世氏は関宿を離れることなく、幕末を迎えます。その間の藩主は左記のように代替りしています。
また、一時的に、旗本久世斧三郎廣徳(ひろのり)が三千石を知行しました。知行地は、守谷町(守谷市)・市之代村・台宿村・井野村(以上取手市)。鷲谷村(柏市)です。
先年、第九回朝鮮通信使持参の「書契」(外交文書)が見つかりました。老中久世重之宛の文書です。重之は通信使一行の先導役(露払い)として、将軍吉宗に拝謁しました。
なお、十方庵敬順著『遊歴雑記』巻の六弐五「平の将門の古城地の七景」に気になる一文が掲載されています。
「凡そ城取りの堅固なるは、此古城地なるべしと巷談す、これによって公より昔久世大和守へ金一万両を賜ひ、守谷の古城修造し住べよしき難有(ありがたく)台命を蒙りしかど、金六万両にあらずんば取立かたく、壱万両の御金を近頃蓮池(はすいけ)の御金蔵に御預申置よし言伝ふ、故に古城地の裾通り又は大手先と覚しき場所、土手も空堀も堀崩し、新田に開きしかど、二の丸より内は有姿(すがた)にて置くべきよし、関宿の領主より命じけるとぞ。」
関宿藩主の中で、久世大和守を名乗ったのは、廣之・重之・廣明・廣誉の四藩主がおりますが、今泉政隣(まさちか)著の『関宿伝記』の安永九年(一七八〇)序から、久世廣明(ひろあきら)が該当します。同書は、関宿に関する城主・合戦・寺社・名所・旧跡などを雑記したもので、関宿以外では、岩井の「将門伝説」とこの「加藤左次兵衛物語」です(P.288)。原筆者の加藤左次兵衛が、守谷城を視察に訪れたのは、廣明の命令かも知れません。政隣は、『関宿伝記』に「加藤左次兵衛物語」が守谷城見聞録として武士らしい目で観察し、地誌としても面白いと考え掲載したと思われます。
この『遊歴雑記』の記事の真偽より、幕府より一万両を賜ったことが大事で、安永時代から守谷城の再利用あるいは史跡保存が話題になっていたことが窺い知れます。
・御三卿 田安(たやす)家 在任期間 延享四年(一七四七)~慶応四年(一八六八) 一二四年間
第八代将軍徳川吉宗の次男宗武(むねたけ)が延享三年(一七四三)加増され、武蔵、下総、摂津国などに於いて賄料として十万石を領し、田安徳川家を興しました。四男宗尹(むねただ)は、武蔵、備中国などに於いて加増され、賄料として十万石を領し、一橋徳川家を興しました。第九代将軍徳川家重の次男重好(しげよし)は、宝暦十四年(一七六四)加増され、武蔵国などに於いて賄料として十万石を領し、清水徳川家を興しました。三家併せて御三卿(ごさんきょう)といわれます。
延享四年から、今まで関宿藩領の村々は、田安家へ領替えさせられました。田安家の歴代当主は左記になります。
田安殿が大山村を支配していた明和九年(一七七二)二月、江戸目黒行人坂(ぎょうにんさか)の大圓寺(だいえんじ)(東京都目黒区下目黒)が放火されて大火事が発生、死者・行方不明者一万八千人を超える大災害でした。幕府は関東諸侯に建築用材の木材を供出するようにと命じました。田安侯は幕府の要請に応じ、大山村山林のすべてを伐採し江戸に送ります。そして、その跡地に新田を開発したので、伐採跡地の大山村は大山新田村になったといいます。
・御三卿 清水(しみず)家 在任期間 明和元年(一七六四)~寛政七年(一七九五)三十一年間
清水領は、野木崎村名主家の『椎名家文書』によると、明和元年(一七六四)~寛政七年(一七九五)の三十一年間、野木崎村本田分が清水重好(しげよし)領です。新田流作分は、幕府領の代官支配です。
これは珍しいケースで、通常ですと本田分と新田分は、同じ郡方役所の代官が管理していますが、清水領の本田分は清水役所が担当しています。
近世初頭以来、野木崎村は大名領と幕府領が複雑に変遷したものの、一貫として一村一領主の一給村でしたが、幕末は、旗本平岡氏・本多氏・石川氏・薬師寺氏の四給地となりまして、明治維新を迎えます。
守谷藩の歴代藩主が領知した実際の村名を次ページの別表に記します。
表の内、第三代土岐頼行は、寛永二年(一六二五)一二月、幕府から御朱印を賜りましたが(「土岐頼行宛領知朱印状」/『土岐家文書』)、目録は紛失したため村名は不詳です。しかしながら、郡名と村数が御朱印に書かれていましたので、村名は推定できました。猿島郡のうち、報恩寺村は岡田郡ですが、次の堀田正俊の領知ですので、郡名の間違いです。猿島郡の二村猫実村と大口村は地理的繫がりがありますので推定しました。
第四代堀田正俊領は、慶安四年(一六五一)「領知書上」通りです。
第五代酒井忠挙領は、寛文九年一六六九「領知目録」/『姫路酒井家文書』通りです。
時代 | 慶長~元禄 | 寛永時代 | 慶安時代 | 寛文時代 | |||
国 | 郡 | 市 | 村 | 一色氏知行地 | 土岐頼行 | 堀田正俊 | 酒井忠挙 |
下総国 | 相馬郡 | 守谷市 | 守谷町 | ○ | ○ | ○ | |
乙子村 | ○ | ○ | ○ | ||||
小山村 | ○ | ○ | ○ | ||||
鈴塚村 | ○ | ○ | ○ | ||||
高野村 | ○ | ○ | ○ | ||||
立沢村 | ○ | ○ | ○ | ||||
大木村 | ○(相給地) | ○ | ○ | ○ | |||
大柏村 | ○ | ||||||
板戸井村 | ○ | ||||||
大山村 | ○ | ||||||
同地村 | ○ | ○ | ○ | ||||
赤法花村 | ○ | ○ | ○ | ||||
野木崎村 | ○ | ○ | ○ | ||||
辰新田村 | ○ | ||||||
奥山新田村 | ○ | 取手市 | 大鹿取手村 | ○ | ○ | ○ | |
稲村 | ○ | ○ | ○ | ||||
高井村 | ○ | ○ | ○ | ||||
戸頭村 | ○ | ○ | ○ | ||||
米ノ井村 | ○ | ○ | ○ | ||||
野々井村 | ○ | ○ | ○ | ||||
市之代村 | ○ | ○ | ○ | ||||
貝塚村 | 常総市 | 坂手村 | ○ | ○ | ○ | ||
内守谷村 | ○ | ○ | ○ | ||||
岡 | 報恩寺村 | ○ | ○ | ○ | 猿島郡 | 坂東市 | 幸田村 | ○ | ○ | ○ |
神田山村 | ○ | ○ | ○ | ||||
(猫実村) | ○ | ||||||
(大口村) | ○ | ||||||
常陸国 | 筑波郡 | つくばみらい市 | 青木村 | ○ | ○ | ||
青木新田村 | ○ | ||||||
長渡呂村 | ○ | ○ | |||||
長渡呂古村 | ○ | ||||||
出典 | 慶長6年移住 | 寛永2年 | 慶安4年 | 寛文9年 | |||
元禄11年移転 | 領知朱印状 | 領知書上 | 領知目録 | ||||
相馬郡19力村 | |||||||
猿島郡5力村 | |||||||
領地 | 知行4力村 | 都合1万石 | 都合1.3万石 | 都合2万石 |
時代 | 貞享時代 | 宝永時代 | 延宝時代 | |||
国 | 郡 | 市 | 村 | 牧野成貞 | 久世重之 | 田安宗武 |
下総国 | 相馬郡 | 守谷市 | 守谷町 | ○ | ○ | |
乙子村 | ○ | ○ | ○ | |||
小山村 | ○ | ○ | ○ | |||
鈴塚村 | ○ | ○ | ○ | |||
高野村 | ○ | ○ | ○ | |||
立沢村 | ○ | ○ | ○ | |||
大木村 | ○ | ○ | ○ | |||
大柏村 | ○ | ○ | ||||
板戸井村 | ○ | ○ | ||||
大山村 | ○ | ○ | ||||
同地村 | ○ | ○ | ○ | |||
赤法花村 | ○ | ○ | ○ | |||
野木崎村 | ○ | ○ | ||||
辰新田村 | ○ | ○ | ||||
奥山新田村 | ○ | ○ | ○ | 取手市 | 大鹿取手村 | ○ |
稲村 | ○ | ○ | ○ | |||
高井村 | ○ | ○ | ||||
戸頭村 | ○ | ○ | ||||
米ノ井村 | ○ | ○ | ○ | |||
野々井村 | ○ | ○ | ○ | |||
市之代村 | ○ | ○ | ||||
貝塚村 | ○ | ○ | ||||
寺田村 | ○ | 常総市 | 坂手村 | ○ | ||
内守谷村 | ○ | |||||
菅生村 | ○ | ○ | ||||
大塚戸村 | ○ | ○ | ||||
岡 | 報恩寺村 | ○ | 相馬郡 | つくばみらい市 | 新宿村 | ○ |
平沼村 | ○ | |||||
寺畑村 | ○ | |||||
御出子村 | ○ | |||||
細代村 | ○ | |||||
杉下未村 | ○ | |||||
出典 | 領知目録写 | 領知書上 | ||||
相馬郡1万石余 | 関宿領4万石 | |||||
報恩寺百石余 | ||||||
領地 | 都合5万3千石 | 都合5万石 | 都合10万石 |
町村名 | 関宿藩 | 田安領 | 旗本領 | 幕府領 | 寺社領 | 合計 |
守谷町 | 1802 | 38 | 1840 | |||
野木崎村 | 918 | 9 | 927 | |||
高野村 | 694 | 63 | 12 | 769 | ||
板戸井村 | 713 | 13 | 726 | |||
大柏村 | 557 | 64 | 621 | |||
大木村 | 485 | 32 | 517 | |||
立沢村 | 351 | 5 | 356 | |||
乙子村 | 221 | 221 | ||||
大山村 | 104 | 104 | ||||
鈴塚村 | 95 | 95 | ||||
同地村 | 80 | 80 | ||||
奥山新田村 | 58 | 58 | ||||
小山村 | 842 | 842 | ||||
赤法花村 | 47 | 47 | ||||
辰新田村 | 32 | 32 | ||||
合計 | 2676 | 3405 | 918 | 172 | 64 | 7235 |
町村名 | 寺社名 | 朱印地 |
守谷町 | 八幡社(惣代八幡神社 取手市寺田) | 5石 |
西林寺 | 20石 | |
長龍寺 | 10石 | |
永泉寺 | 3石5斗 | |
野木崎村 | 薬師堂(もと医王寺) | 4石5斗 |
正安寺 | 4石2斗 | |
高野村 | 海禅寺 | 11石5斗 |
高福寺(廃寺) | 9斗 | |
立沢村 | 観音堂(龍澤寺) | 5石4斗 |
清瀧寺 | (6石) | |
但し、清瀧寺は、往古朱印地を有していましたが、兵火で朱印状を焼失し、領地は没収され、貢租地になったと伝えます。