著者は関宿藩四代藩主久世廣明の時の関宿藩士で、安永九年(一七八〇)『関宿伝記』を著しました。ただし、守谷古城の記述は、同関宿藩加藤左次兵衛物語を引用しています。
『関宿伝記』より抜粋
「同藩加藤左次兵衛物語に、先年相馬へ行きし事あり。弥生(三月)二十日あまりの事なりしに、小張村を出て、田場を経て、豊体村青木村両村ともに、土屋能登守(土浦藩主土屋泰直(やすなお))様御領分、青木村内小貝川舟渡し、谷田一ツ越えて坂口より左へ岨道(そばみち)通過して、相馬郡守屋町東裏へ出る。是より案内(あない)頼みたるに、村長喜内(むらおさきない)(守谷町大庄屋、斎藤家当主、喜内(源蔵吉高))出、此の所より古城なり。馬場の如くなる所を行きて、外曲輪・惣堀の形、浅間に残れり。土居一重隔て、升形躰の所より内へ入る、竪二町余、横三、四町ばかりの麦畑有り、此の所二十五将という由、侍屋敷の跡なるへし、左の方未申(南西)に当り、松山有、此所浄円寺(増円寺)曲輪と云、昔土岐濃州侯(土岐山城守頼行)の居城の由、其の後、上州沼田へ替え、其の時、当城は廃すという。浄円寺はすなわち沼田へ引き寺と成りて、今に沼田に有る由。(中略)さて、それより、また升形のようの所を過ぎて、一ツの曲輪に入る、是を三之丸という、小松など生茂りて左右(とかく)不詳、東の方に行くに谷を少し下りて、左の岨に四、五反程の畑有、九左衛門屋敷という、此の所いつのころにや堀田氏の人の住み給えるよし、其の後は堀田梅之丞(不詳)殿と云よし、土岐侯御上地の跡に給所と成り、幕下堀田氏の知行所なるか、九左衛門といえるは則(すなわち)堀田氏の仮名(実は、土岐頼行の重臣井上九左衛門)なるにや。それより右の方へ曲がりて、又升形にいたる、此辺より今は埋もれぬといえども、なお堀深くたたみ高し、すなわち二之丸に至る、此の所三町歩ほともやあらんか。皆雑木茅原也、此曲輪の丑寅(北東)の方によりて、杉一本有、およそめくり二囲いばかりにて、高さ五丈ばかり迄は枝もなく、いささか曲りもなく、誠に古代の老木と見ゆ、しかれとも猶若木のことく、枝茂り、はたへうるわし、宝暦(一七五一~六四)の頃、此城跡の立木、故あって悉く伐らせられける時、此杉を切らんとて切りかかければ、切れ目より血流れ出けるにより、杣とも恐れおののきて近寄る者なかりしによりて、不思議にその害を免れ、今に寿を保つとかや、尤も脂深き木なれば、敢えて血にても有ましけれと、かかる人気にて在る事、また奇と云つへし。
此の丸、山の頂上と云えし、それより左右に深き堀有りて細き道を通り、土居の内、七八尺を隔て、障子堀あり、此の道一騎立と唱えよし、此の堀深うして、向こうへ渡るべき便なし、引橋と名付ける処にて小竹を力に下りて堀の内へ下り、小笹をすがりて向こうへ上る、此処本丸という。二之丸より地形低し、堀の上り口左右に高土居有り、渡り櫓台の跡にや、此の曲輪およそ一町歩程もあらんか、それより浅間なる堀のかたち有りて、また、一段低き曲輪に至る、是を妙見曲輪という。左の岨に朽たる杉の切株三本に立てり、一本は一丈五、六尺残れり、三本共すべてめぐり八、九尺つつ大小なし、是ぞ古代の木なるへし、三本杉と云い伝えるよし、すべて三、二之丸より此曲輪へかけて、三方めぐりて大きなる沼(古城沼)を帯たり、山に添いては皆田也、谷田を隔て、二之丸より西の方、向かいの山を右近堂と云、疑らくは、右近殿の誤りにや、此長田の末、山伝へに右近堂へ渡る辺りを清水川(古城川)というよし、真偽はしらず。里民伝えるは、これなん平親王将門の旧地という、さすが山高きにあらず、沼深きにもあらねども、今ははるかにいにしえの事なれば、山谷の形も変地する習いなれば、今詳に残れる鎌倉たに、鶉(うずら)鳴なる麦畑の様浅間敷侍れば、これもまさしき旧跡にや。後人の作れる書なれとも、いわゆる『前大平記』にも辰巳(南東)にあたれる沼のかたより破れしとやらん、実に此沼も城の辰巳にあたるも、いささか附合せるといはんか、しかはあれと、其文にも下総国猿島郡岩井の郷に都すと侍れば、ここは下総なれと、相馬郡にて守屋といへは、少しく疑なきにしもあらす。また、相馬の将門とも申し侍れば、岩井まで道のりわずかに二四里へたつれば、此所は城址となし、宮室は岩井へ営(いとなみ)けるにや、都にて此東の果ての事なん申し侍らんには、いかて巨細(こさい)(委細)の事侍らんなれば、何れに其跡と云筈なかるへし、しかれとも、土居堀のさまは皆近世の製作にやとおもほへ侍れは、要害の地、不変の事故、中絶て後、足利家の末、瓦のことくなる世に、誰人にても立けるを土岐侯の拝受有りけるにやと覚ゆ。」( )内は著者の注記