歌人、国学者、村田春海の門人、同門の高田與清(ともきよ)と双璧といわれています。文化十二年(一八一五)水海道から守谷に入り、守谷城址を訪ねました。その時の紀行文『総常日記』です。
「十二日、朝日のさし出るを待ちて、あるじにいとまをつけて出たつ。ここより相馬郡也、三丁ばかり左に平親王の古城の跡有といえばと見る今に、空堀の跡いちじるしく三重に堀をまわして、出丸本丸ともいふべき、たかき所あり、要害の沼広くて、なか浅は水田にはり、たかき所をば、畑につくりたり、本丸とおぼしきは古井あり、井げたなどはなくて、深さ三丈はかり底にいささか水見ゆ、天慶のむかし思いやらるる事おほし、しばしやすらいで、見めくりつつ、思いつづけるうた、
いくとせか ふる井の底のたまり水 千代に濁れる 名こそ埋もれぬ