⑦赤松宗旦(そうたん)

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 著者は、下総国布川(茨城県相馬郡利根町)の医者で、著書の『利根川図志』は、利根川流域の寺社・旧跡・風物を紹介した地誌で、安政五年(一八五八)の初版、巻二に、平将門旧祉と早歌「和田の出口」を掲載しています。安政元年(一八五四)十二月九日、宗旦は『利根川図志』の取材旅行で関宿を目指します。十二日水堀(三ッ堀)、保木間、目吹、船方と利根川右岸を北上し桐ケ作(きりがさく)村(以上野田市)に眼科医で雅名を「風梧」という人を訪ね、そこで聞いた俗謡二つが「笏記(しゃくき)」に記されています。
 「里俗のうた 今につたふ、
 ワドノ出口ノ。ゴホエヌキ。花ハイナムラハワタカダ。ハナハモリヤノ城ニ咲ク。シロニアマリテ。町ニサク。
 右の唄をうたふて、おとりを踊る。是ハ守谷平ノ将門時分のうたなりとぞ。」(『評伝赤松宗旦』川名登)
『利根川図志』には「守谷城全盛の時の童謡として、今猶傳ふる者あり。左に載す。」と紹介しています。
「和田の出口のごほ榎、本は稲村葉は高田、花は守谷の城に咲く、城に余りて町に咲く」と唄われた「和田の出口」は守谷小学校
の裏手にあります。守谷城の出口の一つで大きなエノキが最近まであったそうです。出口の下には舟着き場がありました。

平新皇将門城址図
(『利根川図志』赤松宗旦 挿絵)
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵

 そのほか、『筑波の記』の著者藤原為実(ためざね)、『下総国旧事考』の著者清宮秀堅(せいみやひでかた)、俳諧師白井鳥酔(ちょうすい)、漢詩の大沼沈山(ちんざん)、『平将門故蹟考』の著者織田完之(かんし)(鷹州(おうしゅう))、能書家の野村素軒(そけん)(野村素介(もとすけ)、号素軒。茨城県参事(知事))など、多くの文人たちが守谷城址を訪れ、俳句や漢詩を詠っています。なお、野村素軒は、守谷城大手門址の石碑「平将門城址」を揮毫しています(P.308参照)。