平将門の名を有名にしたのは、織田完之(鷹州)の功績に尽きます。明治政府により、叛臣とされる中、国定教科書から将門の
反逆の記述を除くように政府に建議をしたり、明治天皇にご一読されるよう奨めたといいます。『将門記』の注釈書『国宝将門記
伝』や『平将門故蹟考』など多くの著作を残しました。織田の主張は、「将門は逆賊では無く、悲運の英傑」というにあります。
明治後期からようやく始まりました将門の復権に、織田の著作が果たした功績は少なくないでしょう。明治七年(一八七四)の一時、摂社「将門神社」に遷座されましたが、昭和五十九年(一九八四)には、再び本殿の江戸総鎮守神田明神(かんだみょうじん)(正式名神田神社)の「三の宮」平将門命として、御祭神に復座を果たします。
「守谷懐古」(律詞)鷹州(『平将門故蹟考』より)
相馬郡中尋御厨
至今守屋有称呼
林丘地古屯倉亦
麦壟雲連妙見廓
後代城隍今想像
往時宮殿本虚無
同名幾度異人出
浅丈夫疑大丈夫