甲戌(きのえいぬ)(文化十一年)、落霞亭(らくかてい)主人が大庄屋斎藤徳左衛門方に逗留して『相馬覧古』を著わしました。その一節に「目くるめく斗(ばかり)に深く下り高く登る事、甚だ険しく」と守谷城址の大堀切を評しています。文化十四年(一八一七)八月、高田與清は紀行文『相馬日記』に、「村ぎみ(村長)の斎藤徳左衛門(為昭)が家を訪ねるに、主人喜びて俳諧師鳥酔がこの里に遊びし折り、しるせし記(ふみ)なと取り出して見せたり」(『改訂増補守谷志』斎藤隆三)。と上から目線で自慢げに記しています。ところが、同じ文中の数行あとに「めくるめくばかりの深きほりきを渡りて八幡廓に移る。」とそっくり似た文を書いています。また、『利根川図志』の赤松宗旦も、『相馬日記』から転載するとことわって、その一節に「眩(めくるめ)く許(ばかり)に深き塹(ほりき)を渡りて八幡廓に移る」と記しています。高田與清・赤松宗旦を魅了した「めくるめくばかりの・・・」の名文を書いた落霞亭主人・俳諧師鳥酔(ちょうすい)とは誰なのか?
『改訂増補守谷志』は甲戌(こうじゅつ)を文化十一年(一八一四)としていますが、文化十一年には既に白井鳥酔は亡くなっています。しかし、『天慶(てんぎょう)古城記』(白井鳥酔)の宝暦五年の年次集に「相馬覧古、ことし甲戌春三月筑波山詣の頃総陽相馬郡守谷の郷斎藤氏の宅に淹流(えんりゅう)す」(『関東俳諧叢書第十四巻』)とあります。このことから、宝暦(ほうれき)四年甲戌(一七五四)春三月、鳥酔は筑波山詣の途上で斎藤家(源蔵吉高)から歓待を受け長逗留して『相馬覧古』を著わしたことがわかりました。干支(えと・かんし)を一巡六十年、間違えたようです。
白井鳥酔(一七〇一~一七六六)本名は白井喜右衛門信興、上総国地引村(千葉県長南町)の代官の家に生れ、代官に就任するも弟に譲り江戸に出る。松露庵・落霞窓・鴫立庵(しぎたつあん)など号しています(松原庵・『俳諧人名辞典』高木蒼梧)。
『相馬覧古』(天理図書館蔵)