⑩ 一里塚(赤法花)

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守谷市指定文化財(史跡)
 この一里塚は、江戸時代、常陸国笠間に通じていた「笠間街道」沿いにつくられたもので、旧赤法花村名主である染谷家古文書(茨城県史料館所蔵)の『古書物写』(文政八年(一八二五))のなかに次の通り記されています。
 
「一、当村江戸より笠間へ大道通り御座候、当村の内、壱里塚壱か所、てしこ代(台)と申す所に、亥(い)(北西)の方塚弐つ松植え御座候、笠間よりの道りは川向う青木村(つくばみらい市青木)より渡し申し候」(『守谷町史』)。
 
 街道は県道46号線より少し北側の筒戸村寄りを通過していました(明治五年七月「赤法花村略図」)。街道沿いには長さ約二百メートルの並木が在りました。そのまま進むと小貝川の国境(くにざかい)で「青木の渡し」を渡河します。
 
 天正十二年(一五八四)九月、相馬氏二十代当主治胤の弟、相馬胤永は北条氏直の指図により敵の佐竹義重と常陸国境周辺で戦い退散させ、感状を貰い、包永(かねなが)の刀一腰(こし)を賜っています(「北条氏直書状」)。更に、北条氏政・氏直父子は一万五千余騎を引卒して総州へ下向、その節氏直と胤永は一里塚に於いて互いに馬上対顔したと『相馬当家図』にあります。胤永は氏直とは家格の違いで、馬上対顔は到底許されませんが戦場の場面で許されたのでしょう。
 歴史はまじかに、何処にも有るものですね。