第三回まで「回答兼刷還使」と呼ばれました。
第四回は「泰平之賀」、第五回は家綱の誕生祝いです。
第六回目以降が徳川将軍の「襲職祝い」で、この回より「朝鮮通信使」となります。
第七回の朝鮮通信使の時、大老堀田正俊が三使(正使・副使・従事官)と「筆談唱和」を行い、儒学思想の政治について論じました。
第八回の通信使の時、新井白石は、経費節減のため、道中でのもてなしの宴は五ケ所に限定するなどの聘礼へいれい改革を実施しました。
この改革は第八回で終わり、第九回の応接は従来通り行なわれました。
第九回、関宿藩主久世重之は、将軍家宣から通信使の応接係に任じられ、三使を久世上屋敷に招くほど親しかったようです。
第十一回の通信使一行の来日には、小田原藩士相馬胤祥(たねよし)は、通り道の箱根越えで、御鷹三十羽通行の係の者、及び進上荷物五棹の係の者を、箱根宿で馳走しています。前述の通り清瀧寺の扁額は、この時の通信使の画員金有声(号西巖)の揮毫と思います。
第十二回の通信使の場合、老中松平定信は「天明の大飢饉」もあり、易地聘例(えきちへいれい)で、江戸ではなく対馬での応接に改め、費用を三分の一(約三二万両)に押さえました。
通信使を迎えるために、幕府が使った費用は、十八世紀初めの頃で約一〇〇万両でした。当時の幕府の年間予算はおよそ七八万両でしたから、相当な負担になっていました。
回 | 西暦 | 和暦 | 将軍 | 使命 | 正使名 | 随員 | 特記事項 |
一 | 一六〇七 | 慶長十二年 | 秀忠 | 回答兼刷還使 | 呂祐吉 | 四六七人 | |