下総相馬氏関連年表

318 ~ 325 / 330ページ
平安時代一一二四天治元年六月、平常重、常晴(時)の養子として相馬郡を相続『千葉系図』
一一三〇大治五年六月、平常重、相馬郡布施郷を伊勢内宮に寄進
(相馬御厨の成立))
『鏑矢伊勢方記』
一一三五保延元年二月、平常重、千葉常胤に相馬御厨の下司職を譲与『鏑矢伊勢方記』
一一三六二年七月、国守藤原親通、公田の官物未進を理由に常重を捕縛『鏑矢伊勢方記』
一一三九五年千葉常胤の次子、師常誕生『相馬当家系図』
一一四五天養二年三月、源義朝、相馬御厨を伊勢内宮に寄進『保元物語』
四月、千葉常胤、相馬郡司に補任『平治物語』
一一四六久安二年八月、千葉常胤、相馬郡を伊勢内宮に寄進『鏑矢伊勢方記』
一一五六保元元年五月、「保元の乱」勃発、千葉常胤・上総広常、義朝軍に参陣『鏑矢伊勢方記』
一一五九平治元年十二月、「平治の乱」勃発、義朝軍に広常参陣、常胤不参加『鏑矢伊勢方記』
一一六一永暦二年一月、佐竹義宗、相馬郡を伊勢二宮に寄進『鏑矢伊勢方記』
二月、千葉常胤、相馬郡を伊勢二宮に寄進『鏑矢伊勢方記』
四月、伊勢神宮司庁、常胤の寄進を取消、義宗の寄進を採択『日本史』
一一六七仁安二年二月、平清盛、大政大臣となる『日本史』
一一七九治承三年十一月、平清盛、後白河院を鳥羽殿に幽閉『日本史』
一一八〇治承四年八月、源頼朝、伊豆にて挙兵、石橋山で敗れて安房へ逃げる『吾妻鏡』
九月、千葉常胤・師常父子ら三百騎、頼朝軍に参陣『吾妻鏡』
一一八四寿永三年二月、「一ノ谷の戦い」、常胤・師常、源範頼に従い参戦『吾妻鏡』
一一八五元暦二年三月、「壇ノ浦の戦い」、安徳天皇入水、平家滅亡『吾妻鏡』
鎌倉時代一一八五文治元年十一月、頼朝、守護・地頭の任免権を得る(鎌倉幕府の成立)『吾妻鏡』
一一八九文治五年八月、さうまの二郎(師常)、頼朝より奥州侵攻の命令を受ける
(師常、相馬御厨の支配権の公認)
『薩藩旧記雑録』
九月、頼朝、奥州藤原氏を滅ぼす。常胤、奥州の地を恩賞に賜る
常胤、恩賞の地を子息へ与える。師常、行方郡を得る
『吾妻鏡』
一二〇五元久二年六月、「元久の政変」畠山重忠殺される、二代相馬義胤北条氏に従う
恩賞で高城保(松島町・利府町)を得たか
『吾妻鏡』
十一月、初代相馬師常死去 行年 六十七歳『吾妻鏡』
一二二一承久三年五月、「承久の乱」、宇治川合戦の死者に、相馬三郎・太郎・次郎の名が有るが、実名不詳『承久記』
一二二三貞応二年四月、炬口(たけのくち)庄(洲本市)、新地頭の相馬小次郎(二代義胤カ)の新恩『皆川文書』
一二二五元仁二年二月、越後前守護代、相馬五郎、(義胤)は勲功賞で役に着いたか『後藤文書』
一二三六嘉禎二年八月、将軍頼経の新御所入御に、相馬左衛門(胤綱)が隋兵する『吾妻鏡』
一二四三寛元元年七月、臨時御出供奉人で、相馬左衛門五郎(胤村)が、下旬に結番『吾妻鏡』
一二四四寛元二年六月、将軍頼継の御行始の儀に、相馬次郎兵衛尉(胤継)が供奉『吾妻鏡』
一二五八正嘉二年三月、宗尊親王の二所参詣に、天野左衛門尉が相馬左衛門跡を継ぐ『吾妻鏡』
(相馬氏の後継者が不明状態カ)
この頃カ相馬胤継、相馬尼(胤綱後家)に、義絶(勘当)される『島津家文書』
一二六一弘長元年七月、来る八月十五日の鶴岡八満宮の放生会に相馬胤村が参加辞退『吾妻鏡』
この頃カ胤村後家の阿蓮とその子相馬師胤、所領配分の嘆願書提出『相馬文書』
一二七四文永十一年十月、「文永の役」蒙古襲来、千葉頼胤は博多に参じ傷を負う『中世肥前千葉』
一三二一元亨元年六月、相馬神社(取手市藤代)は相馬氏の創建(六代相馬師胤カ)『茨城県神社誌』
十二月、相馬師胤、濫訴により所領三分の一を没収される『相馬文書』
一三二二元亨二年七月、奥州相馬氏の重胤を鎌倉幕府は「小高孫五郎」と呼ぶ
奥州相馬氏の奥州下向の時期は、元亨元年から二年の間
『相馬文書』
一三三一元弘元年八月、「元弘の変」、幕府軍の中に、相馬右衛門次郎(実名不詳)『太平記』
一三三三元弘三年五月、新田義貞、鎌倉侵攻(鎌倉幕府滅亡)『太平記』
鎌倉将軍府、「関東廂番」組織に相馬小次郎高胤が結番役『建武年間記』
南北朝時代一三三四建武元年一月、「建武の中興」、後醍醐天皇親政『太平記』
一三三五建武二年十月、足利尊氏、離反、(中先代の乱を平定、そのまま京に帰らず)『太平記』
一三三六建武三年五月、尊氏、「湊川の戦」に勝利し、入京、天皇は比叡山へ避難『太平記』
建武三年六月、比叡山攻め、下総国相馬左衛門尉忠重、強弓で防戦『太平記』
十一月、相馬孫五郎(親胤)、尊氏から相馬郡内の闕所地を賜う『相馬文書』
十二月、後醍醐天皇、吉野へ移る(南北朝分立)、忠重南朝から北朝へ『太平記』
一三三八暦応元年九月、北畠親房、常陸国東条浦(稲敷市)に漂着、小田城に入る『烟田文書』
一三四〇興国元年五月、北畠親房、下総国相馬郡に新城を構える
(新城を、今城(高野城・守谷市けやき台)との説もある)
『白河結城文書』
一三四三康永二年十一月、関城(筑西市関館)・大宝城(下妻市大宝)落城『関城繹史』
一三七四応安七年八月、「香取神宮造営事件」、相馬上野次郎、鎌倉府から合力要請
『千葉大系図』では、胤継系の胤望が上野二郎を号しています
『香取家文書』
一三九二元中九年十月、足利義満、南北朝合一『日本史』
室町時代一三九五応永二年「岩松氏本知行分注文案」に野木崎村 北相馬守屋入部と記載『新田岩松文』
一四一六応永二三年十月、「上杉禅秀の乱」、禅秀の娘聟の千葉兼胤と相馬氏が禅秀軍に参陣、(相馬氏は「千葉大系図」によれば、胤望跡の胤長)『鎌倉大草紙』
一四三五永享七年六月、「長倉城攻め」、公方足利持氏は禅秀に味方した残党狩りの為、長倉城(常陸大宮市)の長倉義成の征伐に「相馬」参陣『長倉追罰記』
一四三八永享十年六月、「永享の乱」、公方持氏と管領上杉憲実の仲違えで持氏自殺『永享記』
一四四〇永享十二年三月、「結城合戦」、持氏遺児三人をかくまった結城氏朝の幕府征討軍に上総・下総の軍勢が参陣、「相馬氏」も参陣した模様『鎌倉大草紙』
一四四五文安二年守谷城主相馬氏が、延命寺(坂東市岩井)を創建『延命寺由来』
一四五五康正元年十月、公方足利成氏、「享徳の大乱」で山内上杉氏軍と羽継原(深谷市)で一戦、公方方に「相馬氏」参戦『永享後記』
十一月、千能氏内紛で、東常縁が馬加城(千葉市)攻め、「相馬氏」参戦『鎌倉大草紙』
一四五六康正二年正月、「市河合戦」で、成氏に攻められ、相馬盛屋妙盛氏が戦死『本土寺過去』
一四五九長禄三年一言主神社(常総市大塚戸町)の本殿、相馬弾正胤廣が再建『一言主神社』
一四七九文明十一年十月、東光寺薬師堂(取手市上高井)の本尊の胎内文書に「中興諸檀那、胤秋昌舜(相馬一族の高井氏カ)とあり『胎内文書』
戦国時代一四九三明応二年伊勢宗瑞、将軍足利義澄の母と弟の仇を討つべく二代目堀越公方足利茶々丸を攻め、明応七年に茶々丸自害。堀越公方滅亡『伊勢宗瑞の時代』
一五〇三文亀三年八月、相馬守屋殿(不詳)没『本土寺過去』
一五ニ一大永元年相馬氏、香取神社(守谷市奥山新田)創建『茨城県の地名』
一五二五大永五年閠十一月、足利高基書状に「徳誕蔵主死去、相守因幡守(十六代相馬胤廣)無二に忠信励み候」『常総文書』
年不詳五月、この頃、高野要害(高野城)に於いて合戦あり、胤廣参戦カ『鮎川文書』
一五三七天文六年正月小田・多賀谷勢の攻撃、結城政朝方に守谷・筒戸氏が参戦する『関八七古戦』
一五三八天文七年十月北条氏綱、国府台合戦で小弓公方足利義明を破る、義明は討死『関八州古戦』
一五四〇天文九年十一月北条氏綱の娘、氏康の異母妹、芳春院殿(義氏の母)は晴氏に嫁ぐ『快元僧都記』
一五四一天文十年後の相馬氏二十代治胤生まれる『相馬系図』
一五四六天文十五年四月、「河越合戦」で北条氏康、両上杉・公方晴氏を破る、相馬氏敗走
十八代胤晴、四月二十日死 (死亡日が敗走日の為戦死と推理)
『関八州古戦』
一五四七天文十六年閠七月、河越合戦の翌年、北条氏康は、江戸衆遠山氏配下の桜井・興津両氏を相馬口まで攻めさせ、感状を二人に出す『内閣文書』
一五五二天文二一年十一月、晴氏、北条氏の圧力により梅千代王丸(義氏)に公方の座を譲る『桜井文書』
一五五四天文二三年十月、晴氏、古河城にて反旗、敗れて相模国波多野に幽閉される『古文書』
一五五六弘治二年四月、「海老島合戦」後、義氏書状野田弘朝宛「相馬在所へ御働き可有候」『北条五代記』
九月、この頃、「相馬家の家督争い」、整胤姉を娶った高井治胤が十九代の整胤を廃嫡し形式上は養子となって、二十代当主相馬治胤となる『野田家文書』
一五五七弘治三年七月、北条氏康、公方晴氏の古河城復帰を許す『野田家文書』
八月、「小山高朝様・相馬殿、古河城の普請を命じられ無二に走り廻る」『北条文書』
九月、藤氏、古河城奪取を企てるが失敗、晴氏は野田氏に幽閉される『安得虎子』
一五五八永禄元年相馬治胤の弟高井胤永生まれる『北条文書』
一五五九永禄二年四月、「常州山王堂の合戦」、小田氏治の味方「守屋の相馬治胤」、上杉謙信に攻められ、小田は敗走『関八州古戦録』
一五六〇永禄三年正月、「総州関宿同士討ち」、関宿の応援で、「相馬少三郎親胤」【(小次郎治胤ノ舎弟】見張りの為参陣。結城晴朝と簗田晴助の同士討『関八州古戦禄』
『上杉家文書』
一五六一永禄四年二月、「関東幕注文」に、古河衆として「相馬」(治胤)が載る
三月、「上杉謙信の小田原城攻め」、成果無く、鎌倉八幡宮にて、謙信の管領就任式で、成田長泰無礼を働き忍城へ帰る、「相馬」も退陣『北条記』・『千葉伝考記』
一五六二永禄五年四月、簗田晴助、石山隼人佐に、相馬之地を与えることを約束『下総旧事三』
一五六四永禄七年三月、上杉謙信、梁田晴助に対し、「其の意に任せ、相馬一跡進候」『簗田文書』
一五六六永禄九年正月、相馬整胤・子等共々、家来により殺される『相馬系図』
三月、相馬治胤、謙信の本土寺本陣に代官を送り、馬一頭進上『江口文書』
三月、「臼井城攻め」、謙信敗退、関東諸将、謙信より離反続く『豊前古文書』
一五六七永禄十年四月、北条氏政、相馬一跡要害を簗田晴助に与えると書状で約束する『簗田文書』
六月、相馬治胤は公方足利義氏に、守谷城進上で北条氏と和睦する『国会古文書』
七月、氏政、相馬之要害(守谷城)へ、江戸衆を派遣した『芹沢文書』
八月、足利義氏の家臣芳春院周興、当城森谷之事(守谷城)に着城した『豊前古文書』
一五六七永禄十年十一月、足利義氏、守谷城が窮屈なので側近に北条氏と相談せよと書状『豊前古文書』
十二月、相馬孫五郎、義氏から、上飯津嶋郷(坂東市岩井)を宛行さる『水府志料』
一五六八永禄十一年四月、大草修理亮、義氏から相馬在城を褒賞され、拾貫文貰う『国会古文書』
一五六八永禄十一年五月、北条氏政、義氏の命で、古河と相馬の普請を堅固に申し付けて帰陣仕候と、公方の奏者(芳春院周興カ)に報告している『豊前古文書』
安土桃山時代一五七〇元亀元年五月、相馬治胤、公方側近の芳春院宛、近況を報告する『武州古文書』
一五七三天正元年七月、織田信長、将軍足利義昭を追放(足利幕府滅亡)『日本史』
一五七四天正二年六月、東義久、古河表へ出馬し麦上調儀、ついでに相馬地で合戦する『上杉文書』
一五七四天正二年閏十一月、「第三次関宿合戦」、相馬左近大夫(治胤)、北条氏政から軍令書を受領、関宿合戦終わり簗田氏は没落する『広瀬家文書』
十二月、治胤、関宿合戦の勲功賞として、下幸嶋(坂東市)の村々を得る『喜連川文書』
一五七五天正三年秋、北条氏堯(北条氏繁カ)、天神城(常総市大生郷町)を築く『関八州古戦録』
一五七六天正四年十月、天神城落城、氏堯、鹿子内(かなこない)の渡りを越え、守谷城へ逃げる『東国闘戦見聞私記』
一五七七天正五年九月、高井新八郎、北条氏繁より佐竹対策で判物を頂戴する
一五八一天正九年相馬治胤、高野山宝蔵院に高祖将門・他一族の位牌を奉納した『大久保文書』
一五八二天正十年正月、相馬ゆきえ、義氏より石川隠岐守の名跡を拝領『相馬系図』
閏十二月古河公方足利義氏、古河城で没『喜連川文書』
一五八四天正十二年九月カ、相馬民部大夫(胤永)、佐竹戦で勝利し北条氏直と赤法花一里塚で馬上対面、名刀包永(かねなが)の一腰と三種一荷を賜わる『広瀬家文書』
一五八九天正十七年秋、「守谷城外戦」、多賀谷重経は部下の白井全洞に下知して、筒戸城を攻めさせた。守谷・筒戸両城主、相馬治胤より加勢を出し、全洞を撃退した『関八州古戦録』
『多賀谷七代記』
一五九〇天正十八年十一月、「小田原合戦」、豊臣秀吉、北条方へ宣戦布告『北条文書』
正月、相馬治胤・胤永兄弟、小田原籠城『北條記』
五月、長龍寺(守谷市百合丘)に「浅野・木村連署禁制」を発給『長龍寺文書』
七月、北条氏直、豊臣秀吉に降伏(北条氏滅亡)『家忠日記』
一五九〇天正十八年八月、徳川家康、江戸へ入る『北相馬郡志』
菅沼(土岐)定政、守谷一万石を賜り入封『房総治乱記』
一五九一天正十九年この頃カ治胤の嫡子秀胤、家康より五千石の旗本を拝領『寛政譜』
天正年中相馬源三郎胤吉、大円寺(守谷市大木)を修理、名刀一振を寄贈『茨城県神社誌』
天正年中相馬大蔵、香取神社(守谷市大山新田)を創立『茨城県の地名』
一五九二文禄 元年三月、秀胤、「文禄の役」で名護屋へ出陣『相馬当家系図』
一五九七慶長 二年正月、秀胤、没す『相馬当家系図』
一六〇〇五年九月、「関ヶ原の戦い」、旗本相馬氏の参陣は不詳『日本史』
一六〇二七年五月、治胤、江戸にて没す 六十二歳『相馬当家系図』
江戸時代一六〇三慶長 八年二月、家康、征夷大将軍となる。江戸幕府を創立する『日本史』
一六一四十九年十月政胤、「大坂両陣」に供奉する『寛政譜』
一六四〇寛永十七年正月、高井胤永、高井にて没す 八十三歳『相馬当家系図』