あとがき

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 相馬氏最後の守谷城主だった相馬治胤の子孫は、その後、徳川家の旗本として家名を保って行きます。旗本の中でも番方(武役)に属し「大番」に列しましたが、番方は「関ヶ原の合戦」や「大坂の両陣」以降は閑職です。
 旗本五代目の貞胤の拝領屋敷は、赤坂御門近くの為、赤坂御門の門士を勤めていたと思います。八代目の保胤の屋敷は、四谷大木戸近くで、保胤は四谷大木戸の馬改番方に就任していたと思われます。旗本相馬氏の知行高は、当初五千石から三千石、一千石、千二百石となり七代目の相馬信胤で、代官の悪行非道により、八百石の蔵米取で「小普請」(無役)に格下げされ、そのまま明治維新を迎えました。最後の旗本となった相馬祚胤(むらたね)は、明治六年東京府知事宛に、平民編入願書を出しています。
 ここで、本文でも何回か触れておりますが、少し、下総相馬氏と奥州相馬氏との関係について、述べたいと思います。簡単にいうと、どちらが嫡流家なのかということです。近世の文人たちは、例えば『耳袋』や『遊歴雑記』に書かれているように、下総相馬氏を将門の嫡々の正流にして本家と見做しています。出処は『寛永諸家系図伝』(『寛政重修諸家譜』は、まだ発刊されていません)ですが「信田系図」が活かされています。
 また、家系図を見ると、下総相馬氏の五代胤氏・六代師胤は、いずれも左衛門尉を名乗っていますが、奥州相馬氏の五代師胤・六代重胤は、無官です。したがって、下総相馬氏が嫡流家と見做されています。
『耳袋』に両家が不和なることを見透かされていますが、これは奥州相馬氏の十六代義胤の時代、『寛永譜』の提出時に下総相馬氏が系図を見せなかったことにあります。その時、受けて立ったのが旗本相馬氏四代目政胤です。彼は小田原藩士になる相馬胤勝に「御家伝の書」を写して与えています。門外不出でも無さそうなのに、敢えて奥州相馬氏に見せなかった政胤の真意は、いかばかりだったのでしょうか。
 奥州相馬氏は、宝永七年(一七〇七)二月、旗本相馬信胤が知行を召上げられた時、「この家は御当家の分流なり三代忠胤君の御代より訳有り、御出入り之無く」と言い切っております、享保二十一年(一七三六)八月、旗本相馬矩胤が家督相続の挨拶に相馬屋敷に出向いた際も「御家の御分流といえども、御先代より中絶」といっています。嫡流家は、奥州相馬氏と決め付けています。
 奥州相馬氏は、改易の危機を、冷静に対応して乗り切っています。天正十八年(一五九〇)「小田原合戦」の折、義胤は伊達政宗と戦争状態にあり、五月下旬に太閤秀吉と小田原で謁見したと『寛政譜』や『相馬藩世紀』に記録しています。しかし義胤は五月十四日以降、小高に在城し続けており(「伊達治家記録」)、下旬に小田原参着は成立し難い話です。
 極め付けは、慶長五年(一六〇〇)の「関ヶ原合戦」に参加せず、二年後の慶長七年、改易処分を受けたことです。奥州相馬氏は、小田原遅参を弁解してくれた石田三成に相当恩義を感じていたらしく、義胤の嫡子三胤(みつたね)に三成の偏諱である「三」を頂いたほどでした。しかし「関ヶ原の合戦」で東軍が圧勝したので、相馬家に於いても東軍に味方したような験(しるし)が無くては如何なものだろうと、宿老水谷式部が第十五代当主盛胤と第十六代当主義胤に進言し密談して、上杉景勝領の月夜畑(二本松市旧東和町)の大金持の家を襲わせ上杉勢と戦ったことにしました。関ヶ原の翌年の慶長六年(一六〇一)一月、相馬領と伊達領の悪党を掻き集めて実行、結局、相馬の者百五十余人、伊達の者二百五十余人が討たれました。宿老水谷式部が、死者の名字のない者には、武士らしい名字をつけて記帳して置き、後日の訴訟に備えました。同七年六月、三胤改め密胤(みつたね)が幕府に改易への訴訟を提出、「月夜畑の夜襲」報告も効果があって十月、所領没収を免れました(『相馬市史』・『伊達と相馬』)。密胤は、のち利胤(としたね)と改名しています。
 奥州相馬氏は、数々の苦難を乗り超えて中村藩六万石を築きました。そのバイタリティに敬意を表します。下総相馬氏は、歴史に流されて城と所領を失いました。しかし、旗本になった相馬氏は気ままに生きて幸せそうに感じました。それが救いです。
 常陸国の戦国武将たちは、徳川幕府政権下にあって、次々に常陸を去って、常陸には誰も居なくなりました。常陸の盟主佐竹義宣(よしのぶ)は、豊臣秀吉から常陸・下野両国の所領の支配が認められ、対抗勢力の江戸氏(水戸市)・大掾(だいじょう)氏(石岡市)を一掃し、翌天正十九年(一五九一)大掾氏の支配下にあった常陸南部・鹿島郡・行方郡周辺の城主たちを太田に呼び集め酒宴中、一挙に殺害しています。これは「南方三十三館主の謀殺(ぼうさつ)」といわれています。その後、常陸を統一した義宣は、文禄四年(一五九五)に五四万五千八百石を安堵されました。その義宣も、「関ヶ原の合戦」には参加せず、密かに石田三成を支援していたのを咎められ、慶長七年(一六〇二)、上洛中の義宣は領知を没収され、出羽国秋田・仙北の二郡に領知を宛行(あてがい)されました。
 多賀谷重経は、秀吉から下妻城六万石を安堵されましたが、「朝鮮の役」では病と称して参戦せず、過怠金を取られ、「関ヶ原の合戦」では、東軍に属さず、戦後の慶長七年(一六〇二)、重経は居城の破却を命じられ追放されました。晩年の重経は、佐竹義宣を頼って秋田へ行き、末子が彦根の井伊家に仕えていたのを頼って彦根に住いして、その地で没しました。
 安房の里見義康は、子の忠義没後、嫡子がないとされ、里見家は断絶しました。もう一人の名門結城氏は、秀吉の養子秀康(家康の次男)を貰い御家安泰でしたが、関ヶ原後、結城秀康は、旧姓の松平秀康となり、越前北の庄藩主となって常陸を去りました。
 鎌倉時代、常陸国守護を拝命したことがある名門の小田氏治(つくば市)は、結城家の客分として三百石を与えられ、越前へ去りました。そして、常陸国は、外様(とざま)が改易となり、水戸家を代表とする徳川親藩・譜代大名体制に組み込まれ、平安・鎌倉時代から続いた地域の歴史も、秀吉・家康に根こそぎ一掃されました。
 
「はじめに」で古文書に触れましたが、重要なのは古文書を保存・整理して目録を作る事です。目録があれば見たい史料に辿りつけます。古文書保存・整理は、緊急の課題です。現在、守谷市中央図書館に所蔵されています目録は『染谷家文書』(茨城県歴史館)『古文書解読集(一~拾壱)(守谷市古文書サークル)』・『近世史研究 椎名半之助文書を中心に』(東京学芸大学歴史研究室)があります。また、『斎藤家文書』の百件近くが、『斎藤一彦家文書』(茨城県民族学会理事近江礼子著)に収録されています。是非、目録や古文書をご覧いただき、時代の息吹を感じて欲しいと思います。
 埋もれた地域史を掘り起すことは地道な作業ですが、出来るだけ多くの方が、この本に目を通していただき、地域の歴史に関心を持ち魅力を感じて頂ければ望外の喜びです。
 なお、本文中に相馬氏のオールキャストと書きましたが、大きな誤りで全国にはまだまだ沢山の相馬氏が存在します。下総相馬氏の流れで、彦根藩に仕えた相馬氏、笠間藩士の相馬氏、喜連川相馬氏、更には外ガ浜の蓬田(よもぎだ)城主(青森県東津軽郡蓬田村)城主の末裔の相馬利忠(としただ)氏など多くの相馬氏の後裔が健在です。この方々の調査研究は、若い研究者にお任せして、筆を擱(お)きたいと思います。
 末筆ながら、本書は多くの著書や研究者の成果を引用させて頂いております。特に、東北福祉大の岡田清一博士と将門研究家の村上春樹先生から、貴重な史料・論文を頂き、大いに参考にさせて戴きました。ご厚意に深謝申し上げます。また、地元の海禅寺・長龍寺・清瀧寺・大圓寺・禅福寺のご住職から、遠く小田原市内から常光寺・誓願寺のご住職から、多くの貴重なご教示を賜り厚く御礼申し上げます。さらに、守谷市観光協会の作部屋義彦会長・仁田豊理事に、本書発行全般につき精力的にご協力賜り感謝申し上げます。
令和四年二月
川嶋建
石井國宏