(1)昭和30年代(1955~64) 守谷町誕生と都市化を見据えた企業誘致活動

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 1955年(昭和30年)3月,守谷町・高野村・大野村・大井沢村の1町3か村が合併し,新しい守谷町が誕生した。この合併は,1953年(昭和28年),小規模な町村を合併することで組織や運営の合理化を図るために施行された「町村合併促進法」に準じたもので,新「守谷町」は人口12,095人(昭和30年実施第8回国勢調査結果)での出発となった。

 合併を機に,町は町内施設を一体的に整備することで合理化を進めることとし,まず役場機能を集約させるため,新庁舎を仲町(現保健センターの場所)に建設。1959年(昭和34年)の完成後,翌年には支所設置条例を廃止して,支所・出張所として機能していた旧高野・大野・大井沢村役場を廃止した。

 また,1961年(昭和36年)には町内に2校あった中学校を統合し,1964年(昭和39年)まで4年をかけて,充実した教育施設を持つ新中学校(守谷中学校)校舎を建設。町内各小学校についても,校舎増築や校庭拡張等を実施して施設を充実させたほか,1963年(昭和38年)には町内で初めての保育所となる土塔保育所を開所するなど,住民のための施設整備を着々と進めていった。

 これら町内施設整備と合わせて,町は農業主体であった産業経済からの脱却を目指し,1960年(昭和35年)に「企業誘致促進奨励措置条例」を制定。農業以外の産業の発展と町税増加による町財源の確立,職場の創出等をその効果として掲げ,優良企業や工場の誘致を推進していくこととした。

 この企業誘致促進奨励措置条例は,誘致企業に対して奨励金を交付するほか,土地建物の斡旋を行うなど手厚いものであったが,企業との交渉の場では,都心への交通体系の未整備が課題となり,なかなか誘致企業の決定に至らなかった。しかし,1961年(昭和36年)に株式会社呉製砥所(現クレトイシ株式会社),1962年(昭和37年)には明星電気株式会社及び株式会社前川製作所の誘致が実現。町は一定の成果が上がったとして,1963年(昭和38年)4月に本条例を廃止した。

 町は企業誘致交渉の経験から,今後の発展のためには都心への交通体系整備が重要であるとして,常総地区開発促進協議会(水海道市・守谷町・取手町・藤代町・谷和原村・伊奈村)での2級国道(現国道294号)整備要望や常総線電化促進要望活動をより一層進めるとともに,国道6号の交通渋滞を分散させるため浮上した利根川架橋計画について,特に町の発展に重要な事業であるとして力を入れて推進。1962年(昭和37年)には利根川架橋促進協議会を設置し,県知事への陳情や千葉県柏市,野田市,流山町との交渉,筑波郡の関係町村との協議を中心となってとりまとめた。

 1963年(昭和38年)に筑波山麓一帯への学園都市整備計画が閣議決定されると,町の動きは大きく後押しされる形となり,常総地区開発協議会と筑波地区新都市建設連絡協議会との合同協議会を開催するなど,引き続き利根川架橋計画促進運動を進めるとともに,新たに新高速道路(現常磐自動車道)建設計画についても推進活動を展開していった。