1966年(昭和41年)6月,国は首都圏近郊整備法に基づく近郊整備地帯として守谷町を含む県南・県西地区の13市町村を指定。同年7月には,国土開発幹線道路建設法で定める予定路線として新高速道路(現常磐自動車道)の建設が決定され,県南地区は深刻化しつつあった首都圏への人口・産業の集中回避のための受け皿地区と位置付けられるようになった。同年12月,県は取手町・守谷町・利根町・藤代町を取手都市計画区域として指定し,計画的に都市型まちづくりを推進する地区とした。
これを受け,日本住宅公団(現独立行政法人都市再生機構)は,県南地区一帯を宅地開発する計画を立て,当町に対して打診を行った。1968年(昭和43年),町はこの事業計画を広報紙に掲載し,町民に説明を実施した。当時,町は駅周辺など一部に乱開発が認められつつもほとんどが農地であったため,各地で事業に対する反対運動が起きた。このため,同年,町は都市計画委員会を設置,翌年には守谷町都市開発対策協議会を設置し,地権者を交えて町の将来について協議を重ね,地元の理解を得ていくこととなった。
一方,国の機関である首都圏整備委員会は,1968年(昭和43年)に第二次首都圏基本計画,翌年には首都圏近郊整備地帯整備計画を決定し,近郊整備地帯を計画的な市街地展開と緑地空間との共存を図る区域として位置づけるとともに,区域内に大規模住宅団地や工業団地等大規模事業を適切に配置していくことを特記した。
町はこれを受け,1970年(昭和45年)に市街化区域,市街化調整区域の線引きを実施するとともに企画開発課を新設。小規模開発による乱開発を防止し,計画的な大規模住宅団地の造成と工業誘致を進める方針を決定した。以降,1971年(昭和46年)の北守谷団地土地区画整理事業施工区域計画決定,1973年(昭和48年)の南守谷団地土地区画整理事業施工区域計画決定と,日本住宅公団による南北団地の開発が本格化していったが,企業誘致については工場適地として立沢字大久保地区が指定されているだけで,具体的な誘致計画は行われなかった。
一方,町内の住宅開発計画が本格化する中,計画的な住環境整備が急務となった。特に,上水道は1968年(昭和43年)実施の市街地水質検査で70%が飲料不適とい
う結果が出ており,早急に整備するため,翌年上水道対策特別委員会を設置。1971年(昭和46年)には当時県下最大規模となる簡易水道事業の建設を開始し,翌年守谷地区へ給水を開始,1974年(昭和49年)には原,北園などへ給水区域を拡張した。
下水道事業については,1972年(昭和47年)に企画開発課内に下水道係を設置し,日本住宅公団による住宅整備と合わせて,既存市街化区域についても一体的に下水道を整備していくこととした。
また,1971年(昭和46年)には近隣2市2町2村(水海道市・取手市・守谷町・藤代町・伊奈村・谷和原村)による常総地方広域市町村圏が設定され,翌年一部事務組合である常総地方広域市町村圏事務組合が設立。1974年(昭和49年)には常総環境センターが竣工し,共同ごみ処理業務が開始された。