昭和50年代に入ると,大型住宅団地計画が町内で一斉に着工した。
1976年(昭和51年)5月に,北守谷団地が常総ニュータウン北守谷地区土地区画整理事業として事業認可を受け,造成工事を開始。1982年(昭和57年)には一部入居と,区域内の公園や都市計画道路,遊歩道等の供用が開始された(昭和60年竣工)。地権者の合意取付けに難航した南守谷団地についても,1979年(昭和54年)1月に南守谷特定土地区画整理事業として事業認可がおり,造成工事が始まった。
また,町東南部郷州地区でも三井不動産(株)による宅地造成事業が計画された。1979年(昭和54年)に開発行為許可が下りた後,1982年(昭和57年)には一部入居,翌年に区域内の公園や都市計画道路の供用が開始され,「みずき野地区・パークシティ守谷」として1985年(昭和60年)に事業が竣工した。三井不動産(株)は同時期に乙子高野地区の宅地開発も計画。1981年(昭和56年)に地権者の3分の2の同意を取り付け,該当地区の市街化区域編入を町へ要望。同年策定の守谷町振興計画でも「計画的な街づくりのため(中略)三井住宅地開発事業を促進する」とされた。
こういった宅地造成が進むにつれ,住環境整備のための財源確保及び職住一体のまちづくりの必要性が高まり,新たな企業誘致の推進が急務となってきた。
このため,国道294号と関東鉄道常総線に加え,新大利根橋有料道路(昭和55年),常磐自動車道柏~谷田部間(昭和56年)が開通した地の利をいかして,町は工業団地造成事業を計画。1982年(昭和57年)に住宅・都市整備公団(住都公団,現独立行政法人都市再生機構)に事業を依頼した(誘致先として,土地改良及び大野川完全改修事業とともに土地利用を検討中であった大野地区を提示)。この結果,1984年(昭和59年)に住都公団を事業主とする工業団地造成事業が決定され,公害のない優良企業の誘致を行うこととなった。
上水道については,1978年(昭和53年)に公営企業水道事業となり,川西地区簡易水道事業(板戸井及び大木の一部)が給水を開始,1980年(昭和55年)には水道事務所が完成し,給水人口54,500人の規模となった。下水道は1975年(昭和50年)公共下水道計画が都市計画決定され,事業区域を南北団地,みずき野地区と順次拡大,1981年(昭和56年)には浄化センターが新設され,供用を開始した。
一方,計画的な大規模開発から取り残された旧市街地東側について,町は土地区画整理事業で整備する方針を決定し,1982年(昭和57年)(仮称)守谷東土地区画整理事業組合設立のための発起人会を設置。以後,町都市計画審議会,農業委員会,町議会都市化対策特別委員会等で対象地区の市街化区域編入について説明し,理解を求めていった。
また当時は,商業・文化機能などの首都圏一極集中により,東京周辺地域の人口が急激に増加し,交通渋滞や鉄道の混雑等の問題が深刻化していた。県は1978年(昭和53年)に茨城県県南県西地域交通体系調査委員会による調査結果を,「第二常磐線構想」として発表。1984年(昭和59年)には第二常磐線研究会を発足させ,事業主体などの検討を行うなど,具体化に向けて動き出した。