■1町3か村合併の経緯

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聞き手 中村さん,昭和30年に1町3か村が合併して守谷町が誕生したわけですが,合併に至るまでの経緯はどのようなものでしたか。

 

中村  合併以前の状況ですが,戦後は全国的に,食糧問題,つまりどうやって食べていくかということが大きな命題となっていました。

    一方で義務教育年限の延長と,市町村ごとに新制中学校を開設するとされた教育制度改革も実施されましたから,自治体の収入と支出が非常に不均衡な状態になりました。ほかにも,社会福祉や保健衛生関係などの新しい事務も市町村ごとに実施することとなったため,自治体の規模を合理化し,無駄をなくして効率的な行政運営を可能とするよう合併すべきだろうと,昭和28年に町村合併促進法が制定され,いわゆる昭和の大合併が各県単位で進められることになったわけです。

 

    守谷も合併の方向が示され,当初は稲戸井,下高井,菅生,小絹などを合併対象として想定していました。

    しかし,当時の守谷はこの地域で行政の谷間にありました。戦後は食糧が基本でしたから,安定した田んぼを持っている自治体が豊かとされており,その点,守谷には山林はあったけれど,田んぼは天成の谷津田ばかりでしたから,近隣と比べると低い位置に見られていました。

 

    ですから,菅生や小絹,稲戸井,下高井といった地区の中枢の人たちは,守谷よりも取手や水海道の方を評価していました。

    もちろん,大井沢や菅生,赤法花,同地地区など,実際に隣接町村との際(きわ)に住む人たちは,自分たちの生活を中心に新しいまちづくりを考えていましたから,中枢の人とは違う考えを持っていました。このため,外交的には各町村同士で(交渉するなどの)つくろいはしましたが,最終的には同地地区が下高井から分村して守谷に入ったほかは,菅生も小絹も守谷には入らないことになりました。

 

    こうして大井沢,大野,高野,分村された同地を軸として新しい守谷町を作ることになったのですが,各地区が互いをどう思って見ているか,例えば大井沢に対する守谷,高野,大野の見方,守谷に対する高野,大井沢,大野の見方は違っていました。そういう隔たった思いを統一して合併を成し遂げるには,各町村のリーダーや議会中枢に,互いを理解するための努力が求められました。

 

    例えば,大井沢は財政的に困っているという噂がありました。その理由として,当時の大井沢が,鬼怒川架橋の問題を行政の中心に据えて,財政を集中させていたことが挙げられます。また,戦後大井沢は独自に中学校を建設したこともあって,「大井沢は財政難に苦しんでいる。」などと周囲に思われていたのだと思います。

    私は,大井沢は山林や田畑を含めて面積があり,非常に魅力がある地域であると思っていました。

 

聞き手 そうでしたね。合併前,高野,大野,守谷は1町2か村合同で組合立中学校(*)を開設しましたが,大井沢だけは独自に中学校を開設しました。

 

中村  そういう点では大井沢は潜在能力がありましたね。自前の中学校もあり,鬼怒川架橋もやりました。そのかわり財政的に破綻したとか言われることになりましたが。今の守谷市においても,過去の大井沢の財産が生きていると思います。

 

    大野は国民健康保険制度を既に実施しており,村長の鈴木進さんという方は利根川に橋をかける構想も示しており,私の感覚ですが,他地区と比べて行政的に進んだ考えを持っているようでした。

 

    高野は比較的温和な地域で,既に米麦中心の粗放農業ではなくて,軟弱野菜(*)を中心に,首都圏向けの農作物を作っていました。

 

聞き手 高野ではよく,原動機付自転車の前後によこだ籠(かご)(*)を付け,ほうれん草などの野菜を一杯積んで,取手から柏,松戸まで売りに行っていました。

 

中村  当時農作物を売るには,農協ルート,いわば公営のルートと,民間業者が買い取るルートとの,二つの販売ルートがありました。

 

    農業の近代化も南の方から広がりましたね。

    まず,高野で軟弱野菜の栽培が始まったころ,大井沢や大野の一部では葉タバコとかそんなものをやっていました。それがだんだん後退して,全域的に野菜作りが入ってきて,現金収入の道が確立しました。籠を背負って東京へ売りに行ったり,あるいは柏方面から来る(野菜の)仲買人と接触したりして,日常消費する野菜を栽培・販売して現金収入の道を作ったのです。そういった,季節的にしか金銭が得られない米麦栽培とは違う農業形態が,高野には早くから生まれており,暮らしに裕福さがありました。

 

    では中心の守谷はどうかというと,関東鉄道があり,県道が真ん中を貫いており,それらが他地区と比較して位置的な誇りになっていたほか,将門城址などの歴史的史跡もあって守谷の評価が保たれていたように思います。

 

    そのような状況の中,互いに互いを理解し合うため,幾度も会合を重ねて合併にたどり着きました。

 

聞き手 合併ですが,稲戸井や同地もという話がありましたが,同地の皆さんは最初から守谷に来たがったのでしょうか?

    また,菅生の方々に対して,大井沢と一緒に守谷に(入ろう)という動きもあったと聞いていますが,菅生の人たちは守谷に来たがっていませんでしたか?

 

中村  そうですね,同地は初めから守谷に来たがっていました。

    菅生地域も,一般の人たちは守谷に来たがっていましたが,村長や議員など中枢の人たちの考えは違っていました。特に議会を中心に,(守谷より)水海道を良しとする考えがあったように記憶しています。ですから,菅生は水海道と合併したのでしょう。

    合併の経緯は,大雑把に言うとこんなものですね。

 

聞き手 平成の合併のときには,新しいまちの名前や庁舎の場所などが大きな問題となっていたようですが,このときは(町の名前をどうするか)すんなり決まったのですか?

 

中村  いえ,守谷の「守谷」と,高野の「野」,大野の「野」で「守谷野」はどうかという話もありました。結局「守谷」で落ち着いたわけですが,これには大井沢の影響がありました。

 

    大井沢はもともと守谷と良い関係ができており,一方大野は守谷に対抗意識を持っていました。人間それぞれ個性があるように,町村にも個性があって,相性も関係も違っていたのです。「守谷」という名前になったのは,議会の中で大井沢の人たちの(「守谷」にするよう発言してくれた)影響が大きかったからと言えますね。

 

聞き手 そんな状況の中,新しい守谷町の庁舎ができましたね。

 

中村  庁舎を移転することについては,かなり圧力がありましたね。大井沢地区の議員などからは,「とにかく現在の守谷庁舎からは一歩でも外してくれ,体面上,現在の庁舎では絶対にだめだ。」などとも言われました。

    そういうことで,仲町(現在保健センターがある場所)となりました。その前(の役場庁舎)は,今の商工会の事務所の位置にありました。

 

聞き手 場所の選定に当たっては,清水地区や仲町地区などの選択肢もありましたが,仲町に決定した経緯はどのようなものでしたか?

 

中村  中間的な場所という意味があったと思います。

    最終的に決定するまで,ここへ,あそこへ,という選定作業をしていたのですが,あるとき,ここはどうだろうと提案されて,すっと決まったという感じです。

    こうして,庁舎は仲町に決まりましたが,残りの駒が後日,別のところで生きてくることもあります。あのときは後になって(候補地の一つであった清水に)中学校が建設されました。

 

聞き手 合併後に初議会を行ったときは,議員数が60人と多いために,守谷倉庫(*)を解体して議場を作ったという話を聞いたことがあります。

 

中村  初議会の議場となったのは,当時の新町会館ですね。新町会館は,坂町にあった海老原会社(*)の女子寮を解体して造りました。

 

    合併後は,各地区ともすぐに打ち解けました。

    当時,議会が終わると皆でなじみのうなぎ料理屋に行って,お互いに一杯やったものです。意外とすぐになじみましたね。ちょうど中学校の組合議会というものがあって,これは議員選出で構成されていましたので,話し合う機会も多く,そういうことから旧町村同士の関係もだんだん変わってきました。

    合併というものは,やはり町村の成長を契機付けるものなのかなという気がしますね。合併したら合併したで意識を変えていくことが大事です。