■企業誘致と町の変化

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聞き手 合併で意識が変わるということですが,そういう意味で,それまで経済の中心だった農業から工場の誘致へと,意識転換を図るに至った経緯は,どのようなものでしたか。

 

中村  当時,各町村ともそれまでの食糧自給体制の確立から,次の段階として生活向上のための金銭収入が必要となってきました。農業も,粗放農業から軟弱野菜生産に変わってきましたが,それでも限界があるので,各町村とも新しい財政基盤をどう作るかということで,企業誘致の傾向が出てきました。

 

    この地域でそのきっかけを作ったのは,岩井町(当時)ですね。

    昭和34年に当時岩井町長だった吉原三郎さんが,県や国の影響ではなく,自己判断で市内の土地を買い占め,そこへ企業(ビクター)誘致を行うという大胆な手段に出て,近隣の自治体は大きな衝撃を受けました。

    このように,これからの町村運営のためには農業だけではだめだ,第二次,第三次産業を自ら確立しようという気運が,どこの町村にもありました。もちろん国の影響もありましたが。

    守谷としてもそれに取り組むため,昭和35年に企業誘致促進奨励措置条例を制定し,町として企業を誘致する体制を整えて誘致活動を始めました。県の東京事務所を拠点にして,都内の会社を回ったものです。実現はしませんでしたが,神戸製鋼(株式会社神戸製鋼所)などへも行きました。

    そうしてまず最初に誘致できたのは,クレノートン(当時は株式会社呉製砥所)でした。当初クレノートンは,県の開発公社に藤代町を紹介されていました。しかし藤代町は洪水等の災害に遭いやすいという話があって,急きょ守谷になったという経緯があります。そこで,県の開発公社と協力して,用地買収を始めました。

 

聞き手 誘致活動の結果,企業誘致条例に基づいて町内に入ってきた企業は3社でした。なぜこの3社を選定したのですか。

 

中村  誘致条例の対象となったのは,クレノートンと明星(明星電気株式会社),前川(株式会社前川製作所)の3社です。

 

    なぜこの3社を選んだのかといいますと,町が一方的に選定したのではなく,交渉や調整をした結果,あの3社に決まったという感じですね。逆に,こちらで希望しても,あちら(企業)では気に入らない,そういうことがよくありました。

    例えば,人的な問題,水や電気,交通問題など,そういったことは企業も進出するからには,企業なりに調査してきます。ですからこちらが希望しても,相手方が難色を示すことがありました。

    特に茨城は(都内から企業を呼ぶには)利根川がネックでした。当時はまだ埼玉など,川を渡る必要のない用地もありましたからね。

    ですから,もっとほかにも企業を選べなかったかという話もあるかもしれませんが,そういう企業には出くわさなかったですね。

 

聞き手 一番最初に誘致した企業はクレノートンでしたが,その用地買収や資金繰りで苦労したことはありますか?

 

中村  クレノートン誘致前には,あの付近にゴルフ場を造成しようという民間の計画がありました。このときは,実際に東京の不動産業者を呼んで事務所を建て,1反で6万,8万,9万円と土地にランクを付けて用地買収に入るところまでいきました。

    しかし,地権者の一部には,ゴルフ場は絶対賛成しないという方もおり,難航していました。そのようなときにクレノートンの案件が出てきたところ,企業なら良い,企業なら労働力も吸収できる働き口になるだろうという意見が出たため,町が県と組んで誘致することになったのです。

 

    そして値段の問題ですが,当時は,永泉寺周辺の土地は1反(300坪)で3万から5万円という価格でした。

    クレノートン用地買収について検討するため地権者の方々が集まったとき,ある方が,「300坪20万円ならどうだ」と言ったのです。後で,「これほどの値段ならまさか買わないだろうと思った。」と言っていましたが。

 

    ところが,そのとき来ていたクレノートンの買収担当者が,「20万円をいくらか下げてくれたら買います。」と提案しました。

    それで19万5千円という価格となり,地権者さんたちに伝えたところ,その値段では仕方ないということで多くの方の賛同をいただき,(誘致が)決まったという経緯があります。

    しかし,誘致がほぼ決定した後も,地権者の中には,燃料や何かのために山は必要だ,残して欲しい(から反対だ)という方もいました。当時はまだ,燃料として山の木々は重要なもので,その意識も高かったですからね。そういう方たちには,町職員と県の開発公社職員が一緒に,泊り込みで交渉して,買い上げに成功しました。

    ただ,クレノートンの社長は,買取の値段が高すぎて,あまり心良しとはしていなかったようです。

 

聞き手 クレノートンの地権者は何人くらいでしたか?

 

中村  どれくらいだったか正確には覚えていませんが,かなりの方がお持ちだったと思います。

 

聞き手 クレノートンが買収した土地ですが,谷津田部分が(買収されずに)少し残ったりしましたが,そういった土地が残ったのには理由があるのですか?買ったのは山林だけだったのですか?

 

中村  やはり田んぼは農地法の制約がありましたから。それが(買収されなかった)理由だったと記憶しています。

 

聞き手 当時は都市計画法も旧法でしたから,現在の開発行為制度もありませんでしたよね。そういった時代,地主さんと企業がうまくいけば,買収はそれほど苦労しないものだったのですか?

中村  そうでしたね。たとえば,明星(明星電気株式会社)の場合は,買収そのものには比較的苦労しませんでした。

    あの敷地は,組合立中学校の敷地という大きな母体がありましたし,隣接地も農地解放された土地が多く,現金に魅力を感じて土地を手放す人が多かったものですから。

    ただ,明星の敷地は,もともと学校敷地として,ある方が寄付したということで,それ以外の用途に使われるのなら返すべきだという議論があり,裁判にもなりました。

 

聞き手 寄付された土地を明星に売却して,新しい場所に統合中学校を建てた事情はどのようなものでしたか?

 

中村  当時,学校を建設する場合,全面的に新しい学校を造るのと,古い学校を改築するのとでは補助額が違ったのです。新しく造る方が補助額が高かったのも理由の一つでしたが,(元の場所に)企業を誘致したいという考えも,もちろんありました。

 

    また当時,(新中学校の建設地となった)土塔新山清水地区は比較的荒れた土地でした。一方,守谷の中心地は「かみさんちょう(上町仲町下町)」と呼ばれる地区周辺で,土塔新山清水地区は,そのかみさんちょう出身のおんさま(次三男)が耕したり,居宅などを構えたりする地区でした。近くには,合併前に1町3カ村で共同設置した伝染病隔離病舎等があったりして,辺地というイメージのある土地でした。

 

    そこで,そういった場所をそのまま町の中に置いておくのではなく,機会があれば(その場所を新たに活用して)町全体の地域格差をなくそうという考えが,我々にはありました。

    また,合併後の新庁舎問題のとき同様,新中学校を造るならその位置は既存の位置でなく,新たな場所にして欲しいという,大井沢地区代表の意向もありました。

 

    結果的には,中学校ができてあの周辺はずいぶん変わったと思います。最近では,ここ(大柏)に新庁舎ができてこの周辺もずいぶん変わったのではないでしょうか。

 

聞き手 前川製作所の敷地買収はどうだったのですか?

 

中村  そうですね。あそこの土地は,全部ではありませんが,ある個人の方の所有が多かったと思います。

 

    前川は,当初は(進出先として)郷州原(現みずき野)に着目していたのです。

    そもそも,前川がなぜ守谷に目をつけたかというと,当時の前川の会長が,建設大臣だった河野一郎さんと懇意にしており,(河野さんが)筑波学園都市の土地をヘリコプターで見に行ったときの話を聞いたそうです。会長は奈良県出身でしたが,経営的に勘が働く人だったのか,その話を聞いて茨城に目を付け,守谷に着目したと聞いています。

    そうして最初は,まず郷州原に誘致しようと,町の職員が地権者の方々と積極的に交渉したのですが,理解が得られず,最終的に断られてしまいました。

    そのころ私は,世田谷用賀の病院に入院していたのですが,吉田亀次郎町長や職員の皆さんが見舞いに来てくれて,前川の話は断ったと報告してくれました。

    そうしたらそこへ前川の会長がやってきて,「守谷をあきらめきれません。何とかなりませんか。」と言われ,立沢に目をつけることとなったのです。あそこは,一人の地権者さんがほとんどの土地を所有していましたから,その方が納得してくださるなら立地できるかもしれないと,まず説得してみようということになりました。

    退院後に,そのお宅を訪問してお話を伺ったところ,何とかなりそうだという感触を得たので,前川の誘致に本格的に取り組むことになりました。

    あのころは,直前のクレノートンや明星の経緯がありますから,地権者の方々も,お金と山を比較して考えたとき,それなりの値段なら売却を考えても良いという状況ができていたのです。そこで話がまとまって,前川があそこを買ったわけですが,その後,前川はなかなか工場建設に着手しませんでした。

 

聞き手 確かに,(前川は)倉庫2棟だけが建ったきりで,ずいぶん放っておかれたため,当時ずいぶん問題視されましたね。

 

中村  そうですね。最初に建った倉庫2棟が,今あるふれあい道路際の2棟だと思います。

    議員さんの中には不動産をやっている方もいて,そういう方にとっては土地売買は細かく頻繁にある方が良いので,前川は土地の買い過ぎではないかとか,独り占めになるなどの反対意見が出されました。また,買った後も(なかなか工場が建たないので)前川の投資行為だなどと,我々も厳しく批判されました。

    しかし現在では,当時誘致した3社のうち,唯一残る企業となりましたし,あれだけの規模を維持しています。

 

    このように,企業誘致の際に地域で問題視されたのは,(買収する)土地の広さでした。しかし私は,誘致する工場は,狭い敷地一杯に工場が建っているような東京の町工場的なものではなく,工場公園的な立地が望ましいと考えていました。また,後の工業団地のような空間をとることは災害のときにも意味があると認識していましたし,将来の土地利用のためにも,同じ面積を大勢の人が細かく持っているより,少数の人の所有となっている方が交渉しやすいとも思っていました。

 

    そのほか,当時バブルのような状況が始まっていて,零細不動産業者が町内に入りつつあり,あちらこちらにいわゆるスプロール現象が起こり始めていましたから,早めに虫食い状態を抑止する必要もあったのです。この問題は,後の公団誘致などにも関連してきます。

 

    しかし,(そういった理解が得られなかったために)我々は当時,色々な人たちから,(企業に大きな土地を確保させると)土地の値段が上がり,その利益を特定の人が独占してしまう,と相当な批判をされましたね。

    企業に土地を売った地権者の方からも,その後会ったときなどに(企業に土地を売ったのは)失敗だったと言われることがありました。企業に土地を貸すことで利益が得られるようになると,土地を売ってしまったのは失敗だったと。その後,それまでしていたお付き合いができない時期もありました。町村で仕事をしていくのは功罪があるものですね。これは仕方ないことです。

 

聞き手 そのころ,クレノートン,明星,前川の3社のほかに,市内にはどういった企業がありましたか。

 

中村  下新田には食品加工の冷凍工場や機械部品工場がありましたし,岩地区にも自動車部品の工場がありました。

    そういった小さい工場は,周囲の奥さんなどの働き先になっていました。

    先ほど言った下新田の食品工場では,奥さん方がずいぶん働いていたようです。大きな冷蔵庫に入る作業は寒くて大変だったという話を聞いたこともあります。

    大企業だけでなく,小さな企業も結構な雇用先になっていましたね。

 

聞き手 そういうことで,雇用の状況や道路の状況など,町の様子は大分変わってきたのでしょうね。

 

中村  交通状況については,常総線の複線化や南守谷駅建設などが進みましたし,道路では国道294号が砂利から舗装へ整備されました。町内道路は,積極的に側溝整備を進めました。

 

聞き手 それは税収が上がったからできたのですか。

 

中村  もちろん税収も上がったと思いますが,企業を誘致したことにより「上がった」と言えるような(税収)額までいったかは何ともいえません。

    それでも,クレノートンが来たときは,歓迎の騒ぎがありましたよ。商工会や何かが色々と出て,竣工のときなど大騒ぎでした。

聞き手 私は当時税務課にいましたが,税収はそれほどは上がりませんでした。(税収のうち)一番多いのは町民税でしたが,そのうちにタバコ消費税が上がってきて,町民税とトントンになったことを覚えています。

中村  確かにタバコ税は多かったですね。今ではタバコをやめましょうという時代ですが,当時は小売業者の団体があって,そこに補助金まで出して,タバコを売ってくださいという時代でした。

 

聞き手 3企業を誘致できた時点で誘致条例を廃止しましたが。

 

中村  守谷の立地を見たとき,税金の免除までして誘致することは,もう不要だとの考えからやめたのです。

 

    ほかに,企業誘致以外の産業振興では,農業関係で立沢地区の畑地灌漑や,守谷沼の土地改良事業もやりました。今でも碑が建っていますよね。

 

    また,当時のことでよく覚えているのは,利根左岸問題や越流堤(*)決壊の問題です。当時は岩上二郎知事の時代でしたが,越流堤が決壊した翌日,堤防の上で地元の声を聞くための集会が開かれ,ある町議会議員が知事に現状をどうしてくれるのかと問い掛けをしました。しかし,その言い方があまりに丁寧だったもので,実際にその地域に住んでいる方が見かねて知事に直談判をしました。大八洲開拓の方々があそこに移住したことを,その議員は「入れていただいた」というような言い方をしたのですが,そうではなくこういうところに住まわされたのだと,そこへこういう災害を受けてどうしてくれるのだと,そう言いました。

 

    私も脇で見ていたのですが,かなり激しくやりあっていましたね。そこで,交渉の仕方や相手との心理的な駆け引きなど,色々あるものだと思ったことを覚えています。

 

聞き手 それは昭和34年の台風7号(*)のときですね。

    当時,大木流作地域はどこのお宅でも屋根を切って脱出できるよう,天井に鎌や田舟を置いてありました。そして,新米は絶対食べない,古米から食べる,そういう習慣になっていたほどの災害常習地でしたね。

 

中村  逆に,3年に1度の水害なら肥沃になると言っていた方もいました。そういった方は砂防堤(*)を作るのは反対だと言っていましたね。

 

    そういえば,農業問題では,昭和30年代半ばくらいまでは根切の羽中耕地の問題がありました。あそこは洪水になると水門を閉ざしてしまう。それが,よく選挙の際などに政争となりましたね。羽中をどうするこうすると言って。合併前後から昭和30年代半ばまで,羽中耕地問題は農業問題としてずいぶん議論されましたね。

 

聞き手 羽中川は流域がかなりあって,大雨が降ると流域から(水が)落ちてくるので羽中樋管を開けるのですが,(下流の)戸頭方面の利根川からも水が逆流してくるので,水が落ちきる前にすぐに閉じてしまうのです。開けろ,だめだ,と昔からやっていて,今でも問題となっています。

 

中村  今でも樋管監視員はいるのですか?

 

聞き手 いますよ。昔,高野にいた樋管監視員の方は,両方から怒られるから困ったと言っていましたね。