■都市化に向けた動き

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聞き手 人口推移を見ると合併直後は1万2千人でいたものが,しばらく減っていますね。それは何かあったのですか?

 

中村  東京勤めの人が多くなったこともありましたが,当時,守谷のおんさまたちは,柏や我孫子などへ出て行くことが多かったからではないでしょうか。

    守谷に来るのは旧の大井沢や大野の人たちで,旧守谷の人は,柏や我孫子へ,という流れがありました。そこで人口減退となったのでしょう。

 

    自治体の基本は人ですから,いかにそこに住む住民の資質を向上させるかということが,その自治体が素晴らしいものになるかどうかの基本だろうと思います。

    外から来る人を妨げるのではなく歓迎する,それでいて在来特有の素晴らしいものを失わず,互いに交流する,そうすることで自治体の基盤を作っていくのが本来の自治体の姿だろうと思います。そういう点を大事にしながら自治体を営んでいくことが,今後大事になるでしょうね。

 

聞き手  そうですね。ところで,外から人が来るという話に関連しますが,日本住宅公団(現独立行政法人都市再生機構)が来る動きは昭和30年代からあったのですか?

 

中村  そうですね,公団に関しては色々な情報がありました。公団理事が大井沢地区を見に来た,という話もありましたが,そのときはここまでは(宅地開発)できないと,見るだけでお帰りになったそうです。

    その後,公団から守谷で開発をしたいがどうでしょうと,吉田町長に問い合わせがありました。私も,今の虫食い状態が進むより公団で大規模開発した方が良いと思いましたから,誘致を始めることにしました。

 

    まずは,通勤問題などを考慮すると(開発地区は)取手に近い方が良いだろうと,高野周辺の向原などの南守谷地区を想定し,地元の方たちと話し合いを始めました。ところが先ほど言ったように,高野地区は軟弱野菜を中心とした質の高い農業を営んでいたので,とんでもないと猛反発がありました。職員が各地区へ行って説明をしましたが,もう来てくれるなと,拒否反応まで出てしまいました。

    そこで北(=大井沢)はどうだと行ってみたところ,最初は一部の人たちは受入れに気持ちが動いていたようでしたが,高野に対抗する潜在的な意識もあって反対運動が起こり,結局のところ30年代の公団誘致は実現しませんでした。

    ですから,40年代に入って,再び公団による住宅団地計画が動き始めたときは,反対運動が強かった南より,北の方から始めることになったのです。

 

聞き手 公団誘致の際には,特に南団地での反対運動が激しかったですよね。

 

中村  しかし,反対していた人たちも,何年か経ってから私たちと会うと,「いや,中村さんたちはよくやってくれました」と言ってくれたりもしました。

 

聞き手 反対されていた方に対し,どうやって説得されたのですか?

 

中村  私の説得の基本は,農家の方の農地へのこだわりに対して,今の農地はあなた方のおじいちゃんやお父さんが長い間耕作した結果のものだ,これからはむしろ既存の農地にこだわらず,自分たちの力で生活の道を作るために努力すべきだというものでした。

    また,粗放農業から軟弱野菜に変えたりして近代化する経済に順応したように,土地そのものも変化させ,活用させることで時代の波に乗るべきだ,という話もしましたね。

    そういうとき,個人的には賛成でも,全体の雰囲気が反対ということになると言い出せないもので,見ているとこの人は(それほど反対していない)と分かりましたね。