■昭和30年代及び今後のまちづくりについて

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聞き手 それでは,最後に,30年代は守谷町にとってどんな時期だったのかということを中村さんにご考察いただきたいと思います。

 

中村  そうですね,戦後の苦しい食糧難の時代を乗り越えてたどり着いた昭和30年代とは,その後自分たちの生活を何とか発展させようとする立ち上がりの時代だったと思います。

 

    各町村が企業誘致をして新しい産業を確立したり,農業基盤についても従来のような耕し方とか水の求め方ではなくて,もっと合理的に(農業を)営めるよう,作物も質の高いものが生産できるよう,発展を目指した時代でした。

 

    特に守谷の場合は,住宅公団による宅地開発を導入し,乱開発を抑止しながらまちづくりを計画化していきました。それが,今日の守谷,住んでよかったとか,各種ランキングで上位に位置付けされる基盤の役割を果たしたのだと思います。

    そういった昭和30年代を基礎にして今日に至るわけですが,今後は30年代のような荒っぽい「まちの骨格づくり」ではなく,緻密で,しかも科学的な考えによる自治体の体制あるいは構造を構築するべき時期と思います。そして,その段階へ行く初歩的な時代が30年代だったのかなと思います。

    人間と同様,幼児期,学童期など各自治体に成長発展の区切りがあるとすれば,昭和30年の合併はいわば小学校から中学校へあがる段階で,平成の合併は,中学から大学まで進むレベルだったのではないでしょうか。

    平成の合併時,守谷は合併しませんでしたが,行政的に地域の暮らしというものを考えると,今後はあらゆる面で近隣市町村と連携する仕組みやシステムを構築すべき時代になったと考えています。

 

    今は職員も340人いますが,これは大変な戦力ですよ。活用の仕方によっては何でもできる規模ですね。

    人口も順調に伸びて6万人を突破しましたが,これからは既存の市町村意識を払拭しないといけません。東京を中心とした首都圏やつくばを軸とした衛星都市圏,そういうグループの一員としての役割を果たしていく,それが自治体の役割だと割り切るぐらいでないといけません。

    これからは,守谷だけが発展していくことはありえないですね。そういう意味での自治体の融合性が大事ですね。

 

聞き手 そうですね。時代は「関東州」という動きがあるくらいです。平成の合併時,水海道と伊奈と谷和原と守谷という案がありましたが,結局伊奈は谷和原と,水海道は石下と合併することになりました。

 

中村  我々の時代も,広域化について検討したことがありました。昭和34年でしたね。当時の利根,藤代,取手,守谷は,いずれも水害多発地域でしたから,そういった地域同士を道路でつなぎ,都市計画を広域的に考えていこうという作業でした。そのときは,各町村からの出向職員を取手の商工会の事務所に集めて作業をさせました。

    しかし,取手が合併の方向で動き出したため,利根町は「行政区分としては北相馬郡だが,一般の人の生活は龍ヶ崎や対岸の木下にある」と拒絶し,守谷と藤代も取手の指揮下に置かれるのは嫌だということになり,結局,その広域化を目指した作業自体が中断となりました。

 

    そして昭和50年代に入って環境センターを中心とした常総地方広域市町村圏ができました。

    この流れからいくと,(平成の大合併の時には)伊奈や谷和原と仲間になろうという考えが必要だったと思いますよ。

 

    これからは,守谷は守谷の個体として自立すれば仲間ができますから,仲間同士連携しようという意識が必要ですね。その連携がつくば中心なのか,首都圏の末尾にいくのか,その位置は分からないけれど,いつかはきっとそうなるでしょうね。

 

聞き手 私は,中村さんのお話にあった広域化作業のため,取手市などに出向していた時期があり,そこで守谷という枠だけでなく,広域という視点を培えたという気持ちがします。今の職員の皆さんも,ぜひ近隣市町村と付き合って欲しいですね。

 

    それでは,本日は長い時間,色々なお話をお聞かせくださいまして,本当に有難うございました。

 

中村  有難うございました。