■日本住宅公団による南北団地開発について

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司会  それでは昭和40年代ということで,まず,日本住宅公団(以下公団)による南北宅地開発の話から始めたいと思います。

    昭和41年に首都圏近郊整備地帯の指定を受けた当時の守谷の状況について,鮎川さんからお話しいただけますか。

 

鮎川  私は昭和35年入庁で,国民健康保険課に配属され,その後税務課に異動となり,当時の開発行為にはほとんどタッチしていませんので,南北団地についてはあまり詳しくはありません。

    ですから,当時の私の立場から見えていた町の様子をお話しさせていただきます。

 

    当時は,町の産業の7割が農業でした。そのころ税務課で一番頭を悩ませていたのは,農業所得をいかに正確に把握するかということでした。

    農家は,農協を通して東京へ野菜を出荷していたのですが,野菜によって値段が違いますし,農協を通さないで直接販売する方も多くなったために,農業所得の把握が大変難しくなり,どうやって課税するかに大変苦慮しました。結局,収入を個々に調べるのは難しいということで,1反歩いくら,と大雑把な課税の仕方をしていました。

    また,当時は,内職をする農家の方も多かったので,それも把握して税金の対象としないと不公平になるだろうと,そういうところはずいぶん細かく調査していました。

    例えば,あそこの家で着物を作っていると聞くと実際に調査して課税をしたり,内職でできたものを売った先に行って,いくらの収入となったのかを確認したりもしました。企業は収入が明細として出るのに,農業は大雑把だとバランスが取れないということで,そういう細かいことを厳しくやったので,道で会っても会話してくれない人が出たくらいでした。

 

高坂  私は昭和34年入庁で,まず農業委員会に配属になりました。

    入庁した当時の状況ですが,ちょうどこの年の3月,仲町に新庁舎が完成して,昭和30年の合併以降,支所として機能してきた各地区の旧役場から職員が引き上げてきていました。

    新庁舎への引越しのときは,机を並べるのも早い者勝ちだということで,机の場所取り合戦のようなものがあったそうです。最初に(新庁舎へ)入ったのは新庁舎に近かった旧守谷町職員,次に大井沢,大野,高野の順で新庁舎に入りましたが,皆で机の位置を争い,合併前は仲が良かった各地域の職員が,かえって反発するようになってしまったと聞いています。

 

    また,このとき一緒に入った新職員は全部で4名で,本日この場におられる穂戸田さんも一緒でした。統一試験も私たちが初めてでしたよね。

    確か,中村力さんが助役で,面接をしていただいた記憶があります。農業構造改善事業(*)とは何ですかという質問を受け,こちらも入る前ですから,よく分からないまま返答したことを覚えています。

 

    あと,当時のことで覚えているのは,入ってすぐに千葉県成田市にある三里塚に花見に行ったことです。私や穂戸田さんたちは新人ですから,筵(むしろ)を持って場所取りをしたのですが,全職員がバス一台で移動できる,そんな時代でしたね。

 

司会  昭和30年から40年代初頭は,農業が中心で,職員の数も小規模だったのですね。そんな状況にあった昭和43年,町関係者による公団の千葉県視察が(記録として)最初に出てきますが,この公団事業は町が誘致したのか,公団から提案があったのか,そういった詳細をお分かりになる方はおりますか。

 

高橋  私は,今回の座談会のために(何かないか)調べてみたところ,当時の,公団問題反対運動のビラが出てきました。「町民の皆さんに」と題したこのビラは,昭和44年10月発行となっており,会田源一郎町長が(公団を)誘致した,と書いてあります。

    「新しい都市計画法ができて,公団誘致をして…」とありますから,(南北住宅団地は)町が誘致をしたのでしょうね。

 

穂戸田 昭和30年代の企業誘致のころ,吉田亀次郎町長や中村力助役,また当時は町議会議員だった会田源一郎さんや大和田仁さんなどは,よく企業誘致について話し合いをしていたそうです。柏や松戸で乱開発が進み,学校や道路を作るのに苦労している当時の状況を目の当たりにして,やがて守谷にこんな時代が来ることを危惧したと,私は聞きました。

    既に守谷町内にもいくつも宅地開発業者が入って,小規模開発が始まっていました。一番最初に開発されたのは高砂町で,あそこは場所が良いからと,山を切り松の木を切って宅地や道路を作り,売られました。

    そういった小規模開発が下ケ戸や立沢へと広がっていたころだったので,乱開発が進むことを危惧するとともに,それを未然に防ぐため,昭和40年に入ると大規模開発の誘致活動を始めたのだと聞いています。

 

高坂  その下地になったのは,昭和35年制定の企業誘致促進奨励措置条例により誘致された企業です。税金を安くしたりして3企業の誘致に成功しました。クレトイシ(当時は株式会社呉製砥所),前川(株式会社前川製作所),明星(明星電気株式会社)の順に入りました。クレトイシ誘致の際は,我々職員も買収や測量などを手伝いましたね。このときの売値は,1反歩19万5千円でした。

    当時は,県の開発関係部署からも応援職員が派遣されて,企業誘致や買収について指導してもらったりしていました。

 

    そのころ既に,柏市や我孫子町(当時),松戸市は住宅地開発が進んだ状況にあり,守谷でもスプロール現象が始まりつつありました。当時私は農業委員会にいましたが,農地転用(*)がポツリポツリと始まってきました。最初は第3条といって農地を農地として使う申請ばかりでしたが,その次に第4条(農地を別の用途で使用する),そして第5条(農地を住宅地などとして別の人に売却する)の申請と,順番にだんだん多くなってきました。

 

    あのころはまだ(市街化区域と市街化調整区域の)線引きもしていませんから,守谷町全体のことを農業委員会で把握することができたのです。初期の小規模開発は,町道を造らないで真ん中で分筆した私道を造ったりと,今から考えると問題が多い内容でした。穂戸田さんのお話にあった高砂町もそうではありませんでしたか?

 

穂戸田 高砂町は,私道とそれに面した宅地の分筆を同じにしたから,まだ良かったです。私道と宅地の分筆までばらばらにしていたら大変だったでしょう。

 

石﨑  余談ですが,昔,大和田町長から「柏駅に近い大柏団地」との触れ込みで売っていた業者がいたと伺い,驚いた記憶があります。(物件は)当時は利根川を取手回りで渡った守谷にあるのに,さも柏駅の近くにあるかのような宣伝で,だまされた購入者は誠に気の毒でした。

 

大徳  そうですね,「大」の字を小さく書いて,いかにも柏駅前の団地のように見せたとか。今では笑い話ですが。

 

穂戸田 当時は吉田亀次郎さんが町長だった時代ですから,昭和40年代でしょう。財政を豊かにするためには人口を増やさなければならないということで,宅地造成にはどの自治体も積極的でした。

    そういうことで,町でも,初期のころは小規模開発については協力した部分もありますね。

 

石﨑  私が会田源一郎町長にお会いしたとき,まちづくりは計画的な開発をすべきであるという考えで公団を呼んだのだとおっしゃっていました。しかしその後,反対運動が起こったと聞いています。

 

大徳  そうですね,南守谷で反対運動が起こりました。

 

司会  高橋さんにお持ちいただいた反対運動のビラには,昭和44年10月発行の第1号と,11月7日発行の第2号があります。私も,八坂神社に反対ののろし旗が掲げられ,反対する住民が集結していた場面を印象深く覚えています。しかし北団地ではそこまでの反対はなかったように思いますが,どうでしょう。

 

穂戸田 反対運動が強かったのは,南団地でしょうね。南団地の区域では,消防団の半てんが(役場の)カウンターにつき返されたり,むしろ旗を掲げる(=反対運動を起こす)といったことがありました。随分と,南の人たちは反対していると思ったものでした。

 

    注:当時の消防団は,町から制服として半てんを支給されていた。

 

鮎川  北団地はそうでもなく,あっという間にできましたね。

 

穂戸田 北団地も反対運動があるにはありましたが,それほどではなかったです。

    公団の計画が持ち上がった時期は,ちょうど守谷でも(農業に)野菜を取り入れようとした時代で,全国的にも農業は構造改善などをやって,これからは米プラス野菜や畜産でいこうという時代ですから,そんなときに,公団を入れてすべて宅地にしようという計画が反対を受けるのは,当然と言えば当然でした。

    昭和30年代から40年代は農業が主体で,次三男対策事業(*)などもあったくらいで,鮎川さんのおっしゃる通り,町は農家ばかりでしたね。

 

石﨑  そのころ公団は,取手の戸頭団地をやって,それがうまくいったのでその延長で考えていたということも聞いていますね。

 

高坂  戸頭団地ではなく,井野団地ですね。

 

石﨑  井野が先でしたか。

 

司会  そのとき,公団が計画区域を入手する手法は,いわゆる守谷方式と言われた5・5方式(5割買収)であった点が特徴でしたよね。

大徳  最初の交渉のころは,地権者の皆さんに今言った5・5方式が浸透しておらず,すべて買収されてしまうと考えられていたのでずいぶん反対されました。ところが,売るのは半分で良い,自分の土地の半分は残るし,減歩はその中から,という理解がだんだん得られるようになってきて,北団地は山林が多かったため問題なく進みました。一方,南は農地がほとんどだったので(半分の買収ということでも)反対運動が起きたのです。

 

穂戸田 そうですね。高野は野菜の産地でしたから,大反対でした。農協で5億円売れたとか,高野の丸高出荷組合が守谷で売り上げが一番だとかいう時代でしたからね。しかし,そういうものがだんだん衰退してきて,農家の世代交代もあって,考えが変化してきました。

 

石﨑  公団の開発区域の線引きは誰が決めたのでしょうか。

 

高坂  公団が自分たちで決めたのです。谷津田(低湿地の水田)など,住宅地として開発しづらいところだけ残ってしまいました。

 

穂戸田 計画当初は,北団地の計画区域はもっと広かったですよね。

 

高坂  そうですね。最初は400haなんて言っていました。それが色々と(計画区域から)抜かれて200ha少しになったのです。

 

穂戸田 例えば,大山や立沢の田んぼなどは(米が収穫できるからと)計画区域から抜きました。

 

司会  しかし,現在の北団地区域が260haで,最初が400haと言うことは,(抜いたのは)大山や立沢だけではないでしょう。

 

高坂  まず,最初の計画をアバウトでやったのではないでしょうか。実際には300ha程度だったのかもしれませんね。

 

穂戸田 あの当時,地権者の方は大山や立沢の田んぼを区域に入れられると困ると言っていましたが,今考えると入れた方が良かったのかもしれませんよね。

 

高坂  あのころは,現在立沢里山をやっている辺り(立沢字高崎付近)も,農道を作ってとても綺麗に田んぼを作っていたものです。

    昭和30年代は田んぼ1反と畑3反を交換していました。それだけ,米が大事な時代でした。

 

    そういえば話は変わりますが,北団地では,昭和42・43年ごろに防火帯というものを作って,火災に対応しようとしたこともありますね。北団地で火災が起きて,2~3日燃え続けたという事件があったのです。このときは自衛隊まで出動しましたね。

 

司会  ところで,北団地の計画区域には大八洲開拓団(*)の方が入植されていた素住台(すずみだい)地区がありましたね。当時,20戸くらいがお住まいでしたでしょうか。

    現在から考えると,公団や町で集団移転先を用意したわけでもないのに,戦後入植して20年くらいでまた移転,しかも集団ではなく,個々に何箇所かに分かれて移住という状況でしたが,移転先を用意して欲しいなどの要望はなかったのでしょうか。

 

穂戸田 素住台(地区住民の移転問題)については,町が(調整に入ったかは)どうだったか覚えていませんね。

 

高坂  あのときは,素住台にお住まいだった住民の皆さんが,自ら移転してくださったのです。

    素住台の方たちは,大八洲開拓団です。「大八洲開拓史」(大八洲農業協同組合編,1975年)を読むと分かるのですが,大八洲開拓団は満州から戻ってきて,まず東京に入植したようです。

    私が中学校1年生のころ,土塔の長龍寺の前に2階建ての建物があり,皆さんがそこで集団生活を送っていたのを覚えています。その後,大木流作地区,大原地区,素住台地区(以上守谷町),浅間山地区(水海道市菅生町)の4地区に分かれて入植しました。

 

    大木流作地区は河川敷で堤防がなく,米を作っても(台風対策のため)収穫時期前に青刈りしなくてはならないような地区で,浅間山地区も同じような状況でした。

    一方,素住台地区は山林で,当初山林は農地解放には含まれなかったため,入植に当たっては会田源一郎さんのお父さんが山林解放のようなことをして協力したそうです。

 

    入植後,大木流作地区,浅間山地区は米が取れたので生活が楽になりましたが,素住台地区,大原地区は旱魃(かんばつ)地帯で作物が取れずに苦労したそうです。大原地区のリーダーの方は,率先して畑の堆肥を集めたりして,大変ご苦労されていましたね。

    しかし,大八洲開拓団の人たちは,水海道や守谷の人たちのおかげで入植できたと感謝していましたから,(公団計画による移転に)大きな混乱はなかったのだと思われます。

 

穂戸田 大八洲開拓団の団長が入院したとき,私は総務課におりましたので,会田町長と一緒にお見舞いに行きました。その際に「会田さんが言われることには協力しますよ。」とおっしゃってくれたことを覚えています。

 

司会  ところで北団地の買収価格は,国道294号を起点に線引きをして,起点から最も離れた鬼怒川よりの田んぼがいくらとか,そういう風に決めていたように覚えていますが,金額が一番高かったのはどこでしたか?

 

穂戸田 新守谷駅辺りではないでしょうか。

 

高坂  どうだったでしょうかね。

    クレトイシ(誘致のときの買収価格)は1反19万5千円で,前川は35万円,明星は45万円でした。正直言って,あの当時我々は「坪いくら」という金額の感覚がなかったですね。1反いくらという単価でした。

 

大徳  北団地は,おそらくほとんどが坪何千円単位だったでしょうね。

 

穂戸田 そうだったと思います。新守谷駅辺りでも坪1万円くらいでしたか?あそこが一番高かったように覚えています。

 

司会  そうですね。一番高くて坪1万3千円くらいだったように思います。

 

高坂  南団地の方が(単価が)高かったですね。常総線の南守谷駅ができましたし,戸頭にも近いですし。

 

    注:当時の広報もりやには,北団地の用地買収価格は,区域内をA区域及びB区域に大別し,A区域は地理的条件を考慮して更に細分化,B区域は全面一律の価格としたとある。南団地についての詳細記載はなし。

    北団地及び南団地の平均買収価格は以下の通り。

    北団地:坪7,691円(昭和45年11月時点)

    南団地:坪13,092円(昭和47年11月時点)

 

穂戸田 北では立沢の谷津田などが残りましたが,計画の遅れた南では,谷津田を残しても仕方ないと,綺麗に整備することになりました。南では,乙子地区にあるお寺(常安院)の裏の調整池についても,愛宕まで広がっていたのを綺麗にしました。駅も近いし戸頭寄りだし,整備も進んでいるし,ですから値段は北より高かったんでしょうね。

 

司会  北守谷と南守谷の都市計画決定は,たった2年しか違いません。しかも(南守谷の決定時期は)北守谷の造成も始まらないころでしたが,そんな短い間に(谷津田を整備する程)地権者の意識や状況が変わったのですか?

 

穂戸田 米の状況などがずいぶん変わりましたから。農家も休耕で米を作れない状態になり,後から(区域に)入れて欲しいと言ってきた方がいたほどです。

 

司会  南は農地が多かったために同意取り付けに時間が掛かったという話でしたが,計画が立ち上がった時期もずれていたのですか?

 

高坂  両団地の計画は時期的にずれていましたし,スタートもずれていました。

    北団地は昭和57年に街開きを行いました。このときには役場の職員も現場へ行って,手作りのみこしを担いだり,商工会に頼んで八百屋などの仮店舗も立てましたね。

 

司会  そうでしたね。ところで,守谷は下水処理場一箇所で南北団地,みずき野団地を一緒に処理していますが,(取手の戸頭団地に下水処理場があるように)当初の公団の計画は,北は北でというように地区ごとに下水処理するというものだったのですか。

 

穂戸田 私が聞いたところによると,公団で常総ニュータウン計画というものを策定し,そこでは守谷・谷和原・水海道を一箇所に集めて下水処理を行う計画になっており,このために10haを確保したという話です。

 

高坂  それは事実です。守谷だけなら3haあれば足りるところ10haとなったのは,後で聞いたら,県も守谷・谷和原・水海道すべてを集めるつもりだったということでした。そういう計画でしたが,(当時それを聞かされていたら)守谷が承知しなかったでしょうね。

 

石﨑  現在の浄化センターの計画は,公団独自で決めたのですか?もちろん場所などの事前協議はあったでしょうが。

 

高坂  処理場の場所は,利根川の漁業組合とも協議した上で,利根川から一番近いという理由で決まりました。結果的に北団地の管をあそこへ入れるということは,守谷の市街地やみずき野も通ってくることになりますから,守谷全域の下水道が完成したのです。

 

大徳  現在処理場がある場所は,利根川沿いでちょうど守谷の真ん中の位置にあります。もともとは複数の地権者が持っている民有地だったのですが,あそこより東側は高野や大柏下まで河川敷のため(処理場は)設置できませんし,南北団地からもみずき野からも入ってこられるアプローチの良い場所でもあったために,あの場所となりました。

 

穂戸田 こう考えると,守谷はバランスが良かったのですね。

    公団も入って三井不動産も入って,開発がうまくいきました。昭和46年に北団地計画が決定してから,南団地やみずき野の開発が続き,広域のごみ処理場もできて,うまくまとまりました。

 

司会  公団開発の土地利用を決めていく上で,特に公団は公団独自のルールなどを持っていたでしょうが,町とのやり取りの中で,それを守谷に有利にするように変えたりしたということはありましたか。

 

大徳  公団は,五省協定(*)を前提に色々協議していましたけれど,守谷はそれにプラスアルファがないとだめだ,という姿勢で臨みました。

    例えば汚水処理場の問題にしても,「本来は(処理場設置の場所は)開発地区内でないとだめだ,それを地区外に持っていくのであれば,応分の負担をしてください」と,そういう公団ルールから外れた守谷方式というものを求めていきました。

 

司会  汚水の浄化センターの敷地や水道の浄水場などは原則区域内に設定するものですから,それを外に出すのだから公団なり三井不動産で負担してくれ,という理屈だったのですね。もちろん買うのは町が買ったのでしょうが,資金的には公団などから出ているということですか。

 

大徳  そうですね。(本来の五省協定では)大木から汚水処理場までの区間は(公団開発区域の)地区外ですから,この区間については公団は費用負担しなくてよいことになります。しかし,当時の守谷は周辺全体も下水道区域に取り入れようとしていたので,管は最初から大きくしようと考えていました。このため,町は(管を大きくする)その分は負担するから,公団も(区域外設置について)応分の負担をしなさいという論理で協議しました。

 

穂戸田 当時は公団も,国の予算でどんどん整備して良いという時期でしたから。今では考えられない話です。

 

鮎川  公団は率先してこの辺り(常総地域)を開発したいということでしたから,ずいぶん守谷に配慮したのでしょうね。

 

高坂  それから,もう一つ守谷で特徴的だったのが,戸建住宅の分譲です。井野団地のような中高層住宅ではなく,守谷は戸建と土地分譲でいこうということでした。

 

司会  当時,よそで公団が手掛ける開発は賃貸の中高層がほとんどでしたから,守谷が戸建中心という方針だったのは,特異なケースだった気がします。

 

穂戸田 守谷の前に取手で中高層を建てたけれど,一杯にならないのです。科学万博などがあっても(戸頭が)空いている状況なのに,常総線が複線化していない時代,守谷に中高層を建てても無理だろうということで,内部で話し合って戸建方針にしたのではないでしょうかね。

 

高坂  そうですね。それも理由の一つでしょうが,当時町長だった会田源一郎さん自らが,守谷は戸建でいくという方針でした。取手の井野団地が反面教師となり,戸建方針でいくのが守谷方式だったのでしょう。公団側も,五省協定のルールから外れる部分をよく飲んでくれました。

 

    守谷のモデルは沼南町で,視察に行ったりしました。まちづくりについては千葉ニュータウンへも行きました。せせらぎがあったり,石を組んで蛍を育てたりしているのを見て,(関係者には)守谷に先進自治体の良いところだけ導入しようという意識がありました。

 

石﨑  東京圏全体で見ても,住宅公団の開発で戸建だけというのは珍しいです。私も聞いたことがありません。町の姿勢が良かったのでしょうね。

 

大徳  会田町長は,永住して欲しいという意識が強かったですね。

 

高坂  そうですね。戸頭などでは,年中人の入れ替えがあります。ですから,だいたい家族構成の似たような人たちが一定していたので,学校の増設とか廃止とか小学校を中学校にするとか,そういうことはありませんでした。

石﨑  私が賢明だったと思うのは,中高層を建てると,建物が劣化して建替え問題が出てくるという点です。現在この問題は,関西の千里ニュータウンや多摩ニュータウンなど,全国的に大変な問題となっています。その問題がないということだけでも,賢明だったと思いますね。

 

高坂  北団地には少し建てました。御所ケ丘に,2軒で1戸建ての住宅や,1区画に5戸で,その真ん中に共有スペースのあるような住宅を少し作りました。我々はこんなことをしないで欲しいと言ったのですが,公団から少しは建てさせてくれと言われました。