■三井不動産による大型宅地開発について

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司会  では次に,石﨑さんに,三井不動産がみずき野と乙子を開発した経緯をお聞きしていきたいと思います。

    私が知る限り,三井不動産がみずき野団地として開発した郷州地区は,当初工場誘致の候補地という話がありましたが,反対が多くて実現できなかったという経緯があったようです。そのような中,三井不動産がこの地を選んだのはどういう背景があったのでしょうか?

 

石﨑  実は,三井不動産と茨城県との御縁は,旧筑波町生まれで旧制水戸高1回生である江戸英雄氏(昭和22年三井財閥から三井不動産(株)へ,昭和30年同社長,昭和49年同会長,平成9年逝去)が原点でした。強い郷土愛を持たれていて,茨城が常に念頭にある方でした。

 

    昭和36年,国は河野一郎建設大臣のもと,東京一極集中緩和の方策として東京から公的研究機関や旧東京教育大学等を集団移転させる「新官庁・学研都市」建設を決め,移転先を首都圏整備委員会で模索していました。

    江戸会長はその委員会のいわば民間側諮問委員で,河野大臣や他の委員の皆さんと一緒に,移転候補地をヘリコプターで視察したそうです。富士山麓,赤城山麓,那須地域など当初の候補地を視察しましたが,どこも難点があって,機上で皆さんが頭を抱えて帰路に着こうとしたとき,江戸会長が予定外ですがと提案して,旧谷田部町上空から筑波地区を詳しく見ることになりました。眼下に広がる広大な筑波地区は,山林が大半を占める平坦な土地で地盤も良好と地形に恵まれていたうえ,東京からの距離は約60㎞,水も確保できるという好条件にあったので,河野大臣は移転先はここと腹を固められ,昭和38年9月の閣議決定に至ったそうです。

 

    これが,筑波を中心とする県南開発の幕開けと言えるでしょう。江戸会長は,よく,その感慨を楽しそうに語っていました。私はこの話を,当時の委員会事務局長であった故竹内前県知事からも伺いました。

 

    この運命的な筑波への学園都市立地決定が起爆剤となって,県南地区全体が開発ムードに沸きましたが,江戸会長は,国や県からの要請がなければ筑波地区に営利目的で土地を買わないよう自粛されていました。また,守谷については筑波から離れていましたし,つくばエクスプレスなど現在の目を見張る発展は予想できませんでしたから,失礼ながら当時は三井が積極的に買うような土地ではなかったですね。

 

    資料にもありますが,昭和47年に取得した今の「みずき野地区」は,諸課題を精査したら民間にとって絶望的と言えるほど開発困難な案件だったのです。結果として立派なまちづくりができたのは,後で述べますが,行政の皆さんのお力添えと,会社の懸命な努力によるものだったと思います。また,その背景に守谷が筑波からの開発の流れの線上にあったという意味を皆さんと噛み締めたいとも思います。

 

    三井が「みずき野地区」を買った当時は,田中角栄首相の「日本列島改造論」を背景に全国が開発ブームの中にありました。世の不動産関係会社は慎重論より楽観ムードが優先し,事業機会を失いたくないということから,競って土地を仕入れていました。

    私どもも物件を探して全国を駆け回り,何億円という物件を毎週のように買っていました。そんな中,「みずき野地区」は埼玉の業者である金子不動産センター(株)がまとめ,三井不動産の兄弟会社だった三井農林株式会社に持ち込んだ話でした。持ち込まれた三井農林が,こんな大きい物件は荷が重い,と言って金子不動産とともに三井不動産のもとに来たのがきっかけでした。

 

司会  私どもは,三井不動産がまとめて金子不動産の土地と一緒にしたと思っていましたが,逆なのですか。

 

石﨑  美園はそうでしたが,みずき野は違います。

 

大徳  そうでしたか,我々は逆に考えていましたね。

 

石﨑  そうなんです。三井農林がとてもできないと,三井不動産に持ち込んだ案件でした。

    当時,私は用地分野でなく企画開発分野だったのですが,私が知らないうちに買ってしまっていて,それから私のところに回ってきたのです。

    調べてみると,市街化調整区域だし農業振興地域はあるし,県にも行きましたが,建築指導課の担当の方に,「三井不動産はどうしてこんなところを買ったのか,都市計画法の(市街化区域と市街化調整区域の)線引きをしてまだ2年目の市街化調整区域で(開発を)やるのか」とお叱りを受けました。

 

司会  2年目と言うと,昭和47年ですか。

 

石﨑  そうですね,昭和47年には用地を買ってしまっていました。

    まぁ,何とかなるだろうと思っていたのですが,実際に町を訪問し,町の企画開発課長に入っていただいて会田源一郎町長にごあいさつと購入のご報告をしたところ,町長は「どうして相談もなく入ってきたのか」とお怒りで,途方に暮れて役場を後にしたことが忘れられません。しかし冷静になって熟慮しまして,県当局に不快感を持たれ,町長もお怒りの中,大規模な土地を買ってしまった企業としては,これからが本当の事業であると,私は帰りの常総線車中でそう決意しました。

 

    金子不動産が買った土地は虫食い状態でしたが,約90haの面積のうち6割5分,ほぼ7割近くを買収済みで,後は何とかしようと,私が担当となって始まりました。

    どうして開発行為を選んだかというと,事前に開発方針等について何の話もしないまま,土地だけ買収して一方的に施行という形では,地元のコンセンサスが得られないという不安があったからです。もともと調整区域なので土地区画整理事業(*)はできませんでしたし。(その後開発した)乙子は,市街化区域にしてもらうことになっていましたけど,とにかく黙って買っておいて区画整理事業はできませんから。

    また,区画整理事業だと,例えば公団もそうですが街並みがばらばらになる可能性がありますが,開発行為だとまちづくりを一つのコンセプトに沿ってすっきりできるという利点があったのです。

 

    しかし,この開発には問題が色々ありました。

    簡単にご説明しますと,まず市街化調整区域の開発,そして農業振興地域の指定解除と転用が,極めて難しい問題でした。

    また,雨水排水は小貝川に放流する計画でしたが,それが守谷土地改良区の吉田亀次郎理事長の耳に入って,「水が増えて困る,とんでもない話だ」と言われました。一方の取手岡堰(*)も,歴史的に水問題でもめた地区でもあるので,やはりとんでもないと。そうなると雨水も流せず大問題でした。生活雑排水についても,守谷も岡堰も,いくらきれいにしたってそんな水を流すのはとんでもないと相手にされませんでした。そこで苦慮して,戸頭団地に管を持っていき,そこの処理場にお願いする案を模索したのですが,取手市にも許可してもらえませんでした。

 

    そのほかにも自然保護や文化財保護の問題もあるし,県の調整区域開発の指導要綱で定められていた,区域内への膨大な小中学校用地と調整池の確保も大きな問題でした。調整池は指導要綱というよりも,地形的に必要という物理的な問題でしたが,結局は開発面積の3割くらいしか住宅地にならないことが分かり,土地の買値も高かったので,企業採算的にもまったく絶望状態でした。

 

    交通も当時は常総線程度でしたし,岩上県知事の(許可は)難しいという判断もあって開発行為の事前審査も進まなかったので,子会社の販売会社ではこの案件はやめようという話になりました。実は三井の役員会でも撤退・売却の提言が出ていました。公団に開発を引き受けてくれるよう交渉したこともありましたが,断られたそうです。とにかくどうにもならない状態で,江戸会長も郷土の茨城に貢献したいとの願望から,何とかならないものかと心配され,経過を聞くため隔日ぐらいに早朝の私の自宅に電話をかけてきて激励してくださいました。

 

    そこで,私は再度時間をもらって勉強し,検討してみたところ,とにかく東京から40キロ圏だし,将来は高速道路も通り,関鉄も増強されるという条件ですから,将来的にはもっと状況が良くなるだろうと,当時はもちろんつくばエクスプレスは予想できませんでしたが,とにかくやるだけやってみようという結論を出しました。私は役員会で,採算はゼロ,そして今後もっとお金が掛かりますが,県や町行政にも相談をかけた状態で,行政側にも地元にも真剣に検討してくださる方々が出始めており,今さらやめるわけにはいかないと説明し,何とかやらせてもらうことになりました。

 

    先ほどの高坂さんのお話どおり,町はちょうど公団の開発で手一杯で,大変迷惑な話だと,当初は町長はじめ皆さんに冷たく扱われました。

    ともあれ,山積している課題をまずは一つ一つ解決して進むしかないと,まず雨水排水問題について取り掛かりました。小貝川岡堰ですが,建設省の元事務次官に山本三郎さんという方がいましたが,その方は江戸氏の水戸高時代の後輩で,若いころ岡堰の大改造を行い,難題の治水を解決されました。このため地元では神様のように感謝されていましたので,その方にお願いして岡堰に話を通してもらいました。

    守谷土地改良区では,理事長や専務には三井なんか知らないと言われましたが,事務局長は一つ一つ解決していきましょうと,色々と誘導やご指導をしてくれて,私も小絹から排水路沿いに下高井の機場までつぶさに歩いて回り,地元と対話しながら調べました。当時は下高井機場がパワー不足で更新と増強の問題があり,費用的にご負担申し上げたりしながらご理解を得ていきました。

 

    次の問題は汚水排水で,取手の戸頭に持っていけるか交渉するため,会田町長にお願いして,一緒に取手市まで行っていただきました。しかし,当時の取手市長からは協力を得ることができませんでした。

 

    結局流すルートがないので,色々と勉強させていただこうと守谷の地図を凝視しましたら,下水道は公団の両団地の中だけの計画となっていました。協力した守谷の既成市街地の方々はどうするのかと尋ねると,将来は入るだろうが,実際は費用の面など問題があって入るめどは立っていないということでした。

    そこで,当時企画課におられた大徳さんに資料をもらって,ひそかに勉強しました。「みずき野」から役場前経由で野木崎の汚水処理場に持っていった場合の下水道建設費用や,そもそも物理的に通せるかなどを検討し,南守谷から野木崎までを何度も踏査したものです。

 

    高橋さんがよくご存知だと思いますが,当時は下水道建設するに当たっては,段差がある高低差は技術的に嫌がられていました。ポンプで上げるのは嫌がられ,自然流下が良いとされていたのです。しかし,あのルートは何箇所か高低差がありました。

    そこで,高橋さんにお知恵をいただきつつ,町長や大徳さんにご説明しながら下水道建設計画を作りました。進行中の公団・下水道事業計画の変更と拡大を提案した訳です。私は,これは三井のためだけでなく,公団等の大きな開発を受け入れ,協力されてきた守谷の既成市街地の方々に必ず貢献できると確信していました。

    私の提案を受け,会田町長が最も心配されたのは将来の財政負担でした。不足する建設費用は会社に出させますと申し上げましたが,その点について検証が必要だと言われました。このため,当時はコンピュータなんてありませんから,三井のスタッフもお手伝いして,大徳さんと一緒に30年先の流入人口や所得のモデルを手計算で算出しました。それは大変な作業でしたが,三井の負担金を折り込んだ結果,どうやら大丈夫という見通しが立ちました。

    三井が負担するとした金額は,当時で30億円くらいでしたから,帰って役員会で報告したら,「みずき野」の開発許可も得ていないのにと散々に怒られました。しかし,大規模な土地を取得し,開発構想を地元に提示した大企業としてはやるしかないと説明して継続審議となり,これで会田町長の信頼を得ることができました。

 

    昭和52年9月に会田町長に呼ばれて,大徳さんも同席される中,「石﨑さん,担当は代わらないでしょうね,大丈夫でしょうね。」と念を押され,下水道建設をやるという最終決断が下されたのです。会田町長が長期間相当悩まれ,熟慮されていたことは面会する度に感じていましたが,こうして,町史に残る大決断をされたのでした。

 

    町長は下水道をやると決心されてから,ご自身もかなり勉強され,一緒に神奈川などに視察に行きました。筑波にも行きましたが,そこでは町長自らがマンホールにもぐって,こういう水が流れているなら安心だと,実際に確認するなど本当に努力されていました。

    パリでは120年以上前にナポレオン3世が本格的下水道を造ってセーヌ川を綺麗にして,世界的に美しい都市にしたという話(*)をさせていただいた記憶もあります。お酒を飲みながら,下水道がまちづくりにいかに大事かということをよくお話したものです。

 

    次に会社として大きな問題となったのは,中学校建設です。県の指導要綱では小中学校を区域内に作らねばならなかったのですが,それでは民間事業として成り立ちません。そのとき,当時教育委員会にいた高坂さんに,「区域外だが,近くに中学校を建設する案件(愛宕中学校建設)がある」と教えていただいて,これは当方においては願ったりかなったりと,結局は区域内に中学校を作るのではなく,かなり大きな建設負担金を支払うことで区域外とさせてもらったのです。これによって,民間事業として成り立つめどがついてきました。

    そのころには常磐自動車道路の開通見通しも立ち(昭和56年谷和原インター開通),大利根橋有料道路建設も開通に向けて進んでおり(昭和55年開通),常総線も増強される,町も下水道計画の拡大を決定したと,これだけの条件が揃ったのでやるしかないと,再度役員会にかけたところ6~7年にわたる努力も理解され,事業の最終承認を取りつけました。

 

    すると今度は,高坂さんから郷州原には文化財(*)があると連絡を受けました。慌てて対応をお願いし,結局事前調査に約1年をかけて,一部は残すようにという指示を受けて文化財公園として残すこととしました。

 

    そうして,やっと昭和54年3月に,町の同意に基づき県から開発許可をいただいたのですが,その後,建設省において民間事業者の大規模開発に対して公共施設整備負担を軽減するための制度(住宅宅地関連公共施設整備促進事業制度(*))が適用されましたから,都市計画道路や公共下水道,義務教育施設などについての我々の負担が軽くなり,企業として何とか前向きに取り組むことができました。

    消防署や公民館建設も費用的に協力し,ようやく昭和57年2月に第1回の住宅販売を開始しました。販売戸数は60戸だったと思いますが即日完売で,当時は北守谷団地と競合する状況でしたが,こちらに注目が集まったように覚えています。

 

    その後の展開ですが,1985年の科学万博に向けての準備が,その4年前から始まり,私は地元に詳しいということから国・県と博覧会協会が始めた作業に呼ばれて,どうやって人を運ぶかということを検討しました。当時はつくばエクスプレスはまだ予定されていませんから,(常磐線快速電車を)上野から取手経由で常総線を広げて小絹辺りへ持ってこようと,建設省や茨城県と一緒になって,事務方として建設・運輸計画から資金計画まで膨大な勉強をしました。かなり研究したのですが,取手から常総線に入る急カーブでは快速電車は編成が長く,通過は物理的に不可能との結論になりました。今から考えると,この作業がつくばエクスプレスにつながったのだと思います。結果的に科学万博には間に合いませんでしたが,これも一つご記憶にとどめていただけたらと思います。

 

    それから,ヒルズ美園についてですが,みずき野も何とか事業化できたというとき,公団から取り残されたようなちょっと低い土地であった乙子高野地区,次にあそこを何とかできないかということになりました。当時あそこは市街化調整区域でしたが,今回は事前に地元にも相談して,市街化区域に編入してもらうことを前提として区画整理事業という手法で進めることとなりました。

    開発行為で進めると,地権者は土地を売って税金を払うことになります。一方,区画整理事業で進めると,(区画整理で整備した後に土地を売った方が)税制上有利になる点が地権者にとってメリットになりました。また,企業からすると先行取得の土地代金を寝かせないで済むため金利負担が軽減されるという利点がありましたので,地元や行政の皆さんのご理解とご協力のもと,区画整理事業で進めさせていただきました。

 

穂戸田 (下水道計画が拡大したおかげで)本当に守谷は街中の水が綺麗です。守谷は下水道整備もされていますが,普及率も良いですからね。

 

石﨑  県内一でしょう?東京都は別として,市町村でこんなに高い普及率のところはないでしょう。

 

司会  日本一ですね。現在,普及率は100%で,加入率は96%を超えています。

 

穂戸田 守谷は加入率も良いですが,下水道の受益者負担金納入率も良いです。それは,守谷に一括納付報奨金制度があるからだといいます。

 

石﨑  昔,街を歩いたときには沿線の皆さんに怒られたものです。「俺は下水道なんか要らない,畑にまくからお金は負担しない」と言われたり怒られたりしながらも,納得していただくため説明して回りました。

 

高坂  「便所が一つしかないのに,何でこんなに取られるのか」と言われたりもしました。「屋敷が広いんだからしょうがない」と答えたものです。

 

司会  下水道の負担金は,その土地の面積が関係しますからね。

    ところで,最初に金子不動産が,みずき野の土地を虫食い状態ではありましたが,見つけてきた経緯は何か聞いていますか?

 

石﨑  その前に色々な話があったのでしょう。ゴルフ場建設の話とか,そういった話だけを聞いて,金子も実際は確かめないで買ったのではないでしょうか。

 

鮎川  そうですね,みずき野はかなり昔,ゴルフ場を造成するという話がありました。反対が多くて実現しませんでしたが。

 

穂戸田 あの頃のみずき野は,谷津田で場所が悪いところでしたから,あのまま放置されていたら,産業廃棄物とかゴミ捨て場になってしまったかもしれませんよね。

 

鮎川  あの辺りは,昔は郷州原(ごうしゅうっぱら)と呼ばれていて,踏むとふかふかと地面が沈んだりする湿地帯で,子どものころはよくあそこで遊んだりしましたね。湿原のような土地でした。

 

石﨑  そうでしたね。ですからみずき野は,地盤改良にかなりのお金がかかりました。

 

穂戸田 三井不動産だからそれだけのお金をかけられたのでしょうが,他の会社なら投げてしまったかもしれません。ゴルフ場だってだめでしたしね。

 

司会  (みずき野団地の)計画の経緯は,我々の考えていたのとはずいぶん違うものでしたね。

石﨑  そういう意味で,私どもも一度はあきらめようとしたものをここまでこられたのは,守谷町行政や県及び関係各位のご見識とご理解のお陰でありまして,頭の下がる思いです。

 

大徳  いえ,こちらこそ石﨑さんにはご無理を申し上げました。

 

石﨑  用地買収に当たっての苦労は,色々とありましたね。開発に同意していただけず,最終的に山を残したこともありました。どうにも進まないので,周りを切って山を残したのです。

    また,夜中の2時や3時に地権者のご家族とお話したこともあります。

    同地にも結構地権者がおられたので,よく行きましたね。一番弱ったのは,行っても返事をしてくださらないし,「分からない」の一点張りだった方です。困り果てて,「どうしたらよいでしょう」とお尋ねしましたら,先祖のお墓に聞いてくれと言われました。

 

司会  みずき野団地については,当初収支がつりあえば良いくらいで始まったというお話でしたが,あそこは高級住宅地のイメージがあります。通常ですと,収益を出すには中高層という計画が出てきても良さそうですが,そういう計画はまったくなかったのですか?

 

石﨑  中高層は構想になかったですね。戸頭の中高層の値段を考えると,同じような値段なら戸建を買うだろうという確信に近い目論見があって,すべて戸建という計画になりました。結果的に良かったと思っています。

 

司会  中には億単位の物件もあったと聞いていますが。

 

石﨑  それはなかったと思いますよ。

 

司会  先ほどのお話にありましたが,昭和57年入居開始の際には倍率は11倍で即日完売でしたが,一時,全体的に売れ行きが落ちたことがありましたね。

 

石﨑  販売期間が長いので,どうしても経済不況の波に陥ることもあります。それが大規模開発のつらいところでもありますが,実は,もっと小分けにして売ってしまおうとか,色々な話も出ていました。しかしあれだけの街を造りましたからそれはできないと。おかげさまで最初に住んだ方々が環境を大事にされる良い方たちだったので,街の雰囲気が非常に良く,それを壊さないようにしようと。

    売りづらかった時期もありますが,新大利根橋有料道路ができてバスが通ることになりました。あれは大きかったですね。あれがなければあそこまでできなかったですね。

 

司会  新大利根橋の話は後から出たものですよね。

 

石﨑  そうです。後からですね。また,都市計画道路郷州戸頭線がみずき野を南北に通るのですが,あれも良かったですね。柏からみずき野,そしてつくばまで続きますから。

 

司会  三井不動産がみずき野をつくったとき,既に千葉県まで話を通していたのではという噂もあったくらいです。

 

石﨑  全体的な道路敷設は,建設省と県が計画していましたよ。

 

大徳  三井ですからそこまでやっているだろうという話もあったのです。

 

石﨑  そんなことはないですよ。

    そういえば,江戸会長は茨城に来るたびによく言っていました。「皆さん,焦るな」と。(茨城の開発は)千葉と比べて色々な点で遅れており,我々も正直焦っていたのですが,「焦ることはない,開発が遅れても先に進んだものの失敗や教訓を学び,より良き計画を作れるから乗り越えるチャンスがある」とよく言われていました。

    「逆転優位」だと私も言っていましたが,遅れているから学び,知恵と努力で乗り越えられるのだと。

    実際茨城はそうなっています。つくばエクスプレスは首都圏でも高速・快適・安全等レベルの高い列車です。お客さんも違いますよ。利発そうな若い方や学者さん,会話で2か国語を使う方などたくさんいます。今では神奈川や千葉の方が老化しているように思えます。

 

司会  学園都市がなかったら,開発は遅れていたでしょうね。

 

石﨑  まったくその通りです。学園の開発があって,守谷は恵まれていましたね。