■つくばエクスプレス整備と周辺地区整備について

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司会  ではいよいよ,最後のテーマですが,守谷を大きく変えたつくばエクスプレスについてです。当時は常磐新線と呼んでいましたが,昭和60年の7月に運輸政策審議会の答申があって新線敷設が決定されたわけです。それまでの経過というか,一部誘致合戦もあったとも聞いていますが,答申までの経緯はどなたが一番詳しいでしょうか。

 

高坂  私の知っている限りでは,答申が出る前は,第二常磐線といって,ルート案は全部で4つありました。

    当時の県の担当課は鉄道交通課で,建設省や自治省の職員が課長として出向されていました。そこでは取手ルート,守谷ルート,水海道ルート,岩井ルートまで考えており,各自治体で誘致の陳情を行ったと聞いています。

    「ほかでは陳情をやっているようですが,守谷は(陳情活動をしなくても)よいのですか」と大和田町長に尋ねたところ,「ルートは守谷に決まっているからしなくてよい」と言われた記憶がありますね。結局は昭和60年7月に,東京から守谷町南部ということで答申が決まりました。

石﨑  つくばエクスプレスのルートについてですが,それに絡んで,ぜひご記録いただきたい話があります。

 

    三井不動産は筑波からのご縁で守谷の開発から科学万博や万博の鉄道についてお手伝いしていましたが,つくばエクスプレスが柏北部を通ることとなり,三井が所有している柏ゴルフ場の問題が起こりました。

 

    つくばエクスプレスが南から北に上ってくるにはどうしても柏ゴルフ場にぶつかることとなり,鉄道事業者も三井不動産もこれは難しいと言っていました。しかし回避するとなると南は住宅密集地,北は工業団地と,どちらも用地取得が困難な地区で,事業者側はやはりゴルフ場を通すしかないという結論になりました。三井側としては,古くから名門と言われていたゴルフ場(昭和36年開場)ですから会員が大勢おりまして,社内でも大騒ぎになり,何とか避けてもらうべきだとの意見が大勢でした。

    会員の反対も大変なもので,株主総会にまで会員有志の方々が出席して異議を述べるといった状況でした。地権者は地下を通せと言っていましたが,地下を通すとなると莫大な建設費がかかり,開通そのものが危ぶまれるため到底無理と事業者側は判断していました。

 

    更にルート決定に大きく影響した要因はもう一つあって,それは新線が利根川を渡るための架橋の位置でした。利根川には既に常磐自動車道がかかっていたため,治水の関係上,架橋範囲は常磐自動車道から200m以上離すという制約がありました。しかも千葉県・茨城県両岸には3つの調節池があり,それぞれの位置から500m以上は離すという制約もあったのです。こういった条件から架橋の位置は限定されてしまい,流山方面からその位置を結ぶと,先ほどの柏ゴルフ場の通過は避けられないという結果となりました。

    千葉県や茨城県の知事にも何とかゴルフ場を犠牲にできないかと頼まれ,結局,常磐新線計画及び柏北部中央地区一体型特定土地区画整理事業に含まれることとなって,2001年(平成13年)に閉場を余儀なくされました。

    このように,柏ゴルフ場や架橋の問題がキーポイントとなり,千葉県側から都合よく守谷に入ったと言えます。これらの事情がなければ,水海道や戸頭の方に変わっていたかも知れません。結果として守谷にとっては良かったのですが,名門ゴルフ場は一つなくなりましたね。これも一つ,守谷の歴史に関連してご記憶いただければと思います。

    余談ですが,江戸会長自らが松の木を何本も植え,手塩にかけて作って運営した名門ゴルフ場が,自ら誘導した筑波学園都市と都心とを結ぶ常磐新線に協力するため,開業40年目に閉場したという因縁には,何とも感想の言葉が見つかりません。

 

司会  昭和60年に答申があって,石﨑さんのおっしゃる事情もあって,ルートは守谷町南部となりました。また,第一期工事は守谷町南部で止まっていましたが,その後,第二期工事として守谷町かかわらず,現ルートは守谷の中心部を通っていますが,そこに至る経緯についてお話しいただけますか。

鮎川  昭和60年に答申が出されたとき,私は企画財政課にいましたが,(答申で出された守谷町南部ではなく守谷の中央を通してほしいという)守谷町民の陳情書を出すことになり,町民から陳情書をもらってまとめました。それを,大和田町長と私と担当職員との3人で葉梨信行衆議院議員の東京事務所へ行き,案内していただいて運輸省に提出しました。

 

高坂  私が(鮎川さんから)引継いだときはその話はなかったですね。私が知っているのは,まず大和田町長が,北でも南でもない守谷中央が良いと,そういう案を出されたのです。

    そのときに私と穂戸田さんは,500軒の家をどうやって片付けるんですかと話しましたら,では,ほかに案があるかと言われ,そのときに高橋さんが小絹寄りのルート案を出しました。

    こうして守谷は,Aの南守谷,Bの守谷中心部,Bダッシュとしてそれよりやや小絹寄りの3ルートを出しました。しかし,県からそれは問題があるから決まるまでは秘密にしてくれと言われました。そこで新聞記者に知られないようにと,東京で協議した記憶があります。

 

    しかし,守谷の提示したルート案では,石﨑さんがおっしゃったように常磐高速道路の橋梁との位置関係がありましたから,守谷中央を通すには建設省の意向が大切だということになりました。

    当初のルートである守谷町南部は,治水上非常に良い場所だったそうですが,県の担当課長が,もっと中央にという大和田町長の意向を汲んで,利根川上流事務所で検討してもらえないかという話をしてくれたそうです。

 

大徳  私は当時,議会事務局にいました。大和田町長は,どうせ持ってくるなら南でも北でもなく,守谷駅だとおっしゃっていました。

    またもう一つは,守谷町南部コースだと対岸の千葉県ルートが現在の常磐線とそれほど違わないし,認可も相当かかるだろうから,こちら側(守谷駅)に持ってこないとだめだと。そういうことで大和田さんは,柏市長にルートを北へ上げるよう協力してほしいと呼びかけていましたね。

    ただ,実際は守谷駅に決まったけれど,その先のつくばに行くために守谷内部のルートがずいぶん変わって蛇行しました。

 

高坂  車両基地問題にしても,流山に車両基地,操車場(*)があったので,あそこが車両基地になるかと思っていましたが,守谷に決まりました。流山に決まれば恐らく守谷止まりでしたね。

    ところが,茨城県は常磐新線をどうしてもつくばまで持っていきたい,だから守谷に車両基地をという話だったらしいですね。

    高橋さん,(守谷駅より小絹寄りを通るという)Bダッシュの案ですが,クレトイシに協力を打診したこともありましたよね。

 

高橋  そうですね。当時の茨城県の担当課長を中心に働きかけたと聴いています。

 

司会  国道294号側は多少宅地がありましたが,工事的には,Bダッシュとなるクレトイシルートが,費用や期間の問題からすると一番良かったようです。

    あの当時,町内でも地下で通せという話もありましたね。それはやはりお金がかかるということで頓挫したのですか。

 

高坂  鮎川さんから引継いだとき,地下方式も検討してくれと言われましたが,とても言い出せないまま,高架方式となりました。町でも当初は,景観を考えて地下方式を検討したこともありましたが,高架方式と比べて負担増となる額は150億円とも言われ,将来の維持管理も大変だということで,断念したのです。

    大柏地区は最後まで(高架式に)反対していましたよね。

 

司会  大和田さんは,あれだけの家屋移転させるのだから,職員は汗をかかねばならないし,お金もかかると。そういう中で決断されたのですが,当時,議会や周辺にお住まいの市民の反応はどうだったんでしょうか? 

 

高坂  座談会などやるときは,担当職員は自分の居住地区を避けた地区を担当しました。私は土塔だから栄町や新町,穂戸田さんは土塔と海老原町と,二人で分けましたよね。そうしないと,地元の人に怒られますから。

 

司会  反対運動はかなり強かったのですか?

 

穂戸田 海老原町などは大変でした。地元の議員さんもかなり強く反対していました。

 

司会  議会の反応はどうでしたか。

 

大徳  議会は,やはり大柏地区からの地下方式陳情を,県や新線会社に対して行っていました。町執行部とも一緒に行ったことがありますね。ただ,実現にお金がかかるというので,やはり途中であきらめ状態になりました。

 

石﨑  市は鉄道会社に負担はしなかったのですか?

 

高坂  市は株主として出資しています。

 

司会  守谷東(特定土地区画整理事業)は,新線ルートがなかなか決まらないために事業が遅れました。造成工事に入れないまま,ようやくルートが決定しましたが,その時点で既に相当遅れてしまったことは事実ですよね。

 

高坂  中央公民館にテントを張って,町民の意見を聴くための公聴会を開いたのですが,そのときに守谷東(特定土地区画整理事業)と新線と美園の計画が一緒に動き出したのです。このように3つの計画のスタートは同じだったのですが,新線ルートがなかなか決まらないから,守谷東が先行して始まってしまったのです。それによって換地処分や保留地販売も奮わないで事業費が増大し,組合の方々は大変な思いをしたと思います。

穂戸田 守谷東(特定土地区画整理事業)については組合の区画整理事業ではなくて,三井不動産にお願いできないか聞いてみたが,断られたそうです。

 

石﨑  そうですね,あのころはみずき野が売れなくて大変な時期でしたから無理でした。規模が充分でないながらも何とか出来ないかと一応検討はしましたが,会社としてはどうにもならなかったです。

 

司会  負担は,という話がありましたが,新線会社(首都圏新都市鉄道株式会社)が第3セクターとなり,各自治体が出資することになりましたが,その経緯は,高橋さんがご存知ですか?

 

高橋  鉄道会社の負担割合などはもう決まっているような感じで,町がどうのこうの言える状況ではありませんでした。

 

司会  けれど,20数億円という額は,町としてはかなりの負担でしたよね。

 

高橋  当初は,無利子の地方債を発行するという話でした。ですから無利子で借りているはずですよ。

 

    そもそも,つくばエクスプレスや駅前整備の問題で一番肝心なのは,当時の大和田町長が関東鉄道の旧守谷駅に交差させた,という事実です。

    当時,大和田町長に「どうだ,やれるか。」と問われて,私は「できます。」と答えました。と言いますのは,下水道事業などを経験したことで町職員が育っていましたから。ですから,もりや工業団地も直接自分たちの手でやらせてほしいとお願いしていました。

    この駅前も,ほかの沿線都市では公団などで整備をしていますが,町が自前で駅前土地区画整理事業をやれば,職員はレベルアップを図れる,だから苦労してでも職員にやらせてほしい,という話をしました。

 

    もりや工業団地も,当初は公団や企業が主体に整備するという話もあったのですが,色々な事情ですべてだめになって町主体で整備したのです。

 

    現在のまちづくり日本一という話も,職員のレベルが向上してきたからだと思います。そしてその礎石を作ったのは,会田前町長であり,大和田町長だったと思います。人づくりこそ財産です。三井不動産など大企業と直に接して一緒に仕事をすることで職員のレベルが上がったのです。そしてそれが,現在のつくばと守谷の違いでしょう。つくばはそういう作業は全て委託で行ったのだそうです。そこが会田前町長や大和田さんの偉大なところだったと思います。

    基本は人づくりであるという,その点を守谷の伝統として長く残してほしいですね。

 

    また,先ほど下水道の負担の問題で30億という話がありましたが,総額は30億くらいでしたが,三井不動産から直接もらったのは12~3億だったと思います。北団地からの(下水道)幹線については,全額公団にお願いしました。そのほかの負担額は流量比で計算しましたが,実際に管渠を敷設するとなると,(管を)小さくする,大きくするということは,当時のシールド工法(*)ではできませんでした。そういうことも,三井不動産と勉強してやったわけです。

 

石﨑  先ほど申し上げた30億という額は,国庫補助金が出ないという覚悟で役員会に諮った金額です。

 

高橋  当時の民間による住宅地開発事業では,道路,下水道,公園,また,学校建設の費用は,大部分が開発業者負担となっていましたが,昭和53年に創設された住宅宅地関連公共施設整備促進事業を,三井不動産が石﨑さん中心となって作られたという点が,よかったのだと思います。

 

石﨑  そうですね,あれで採算が合ったところがあります。

 

高橋  あれは茨城で初めてですよね。そういうように,私たちが感謝しなくてはいけないのは,先代,先々代町長が,色々なところで人づくりをしてくれた,そういうところを肝に銘じ,努力してきた,それで今の守谷があるのだと思います。

 

高坂  確かに,守谷は昔から安定政権でしたね。近隣市町村は始終首長が替わっていましたが,守谷は,吉田さんが4期,会田さんは3期途中で10年,大和田さんは4期途中で14年,現市長は5期目で17年目に入っています。

    そういう点で守谷は非常に安定政権で,派閥争いもありませんし,仕事は多いし,3月の議会には他自治体では補助金返上などあったようですが,守谷はすべて消化できていました。

    また,守谷の職員は県との交渉なども自ら行っていました。場所まで設定して,県職員を待っていて,帰ってきたらヒアリングすると。確かに守谷の職員は,トレーニングされていましたね。

 

石﨑  そう言えば,私は大和田町長ともよくお話をしましたが,「石﨑さん,およそ命ある物に,道端の雑草にすら1本も無駄がない,職員にも無駄な職員はいないはずだ」と常々おっしゃっていました。そういう気持ちで町政に臨んでおられるのだと,感銘を受けた記憶がありますね。

 

高坂  我々がうまくいったのは,そういう環境があったことと,議会も良かったんですよね。それに当時は,建設省に行ってヒアリングしても,コンサルがいないと入れてくれなかったのですが,町の常磐新線協議会会長を務めていた小島重次先生など色々な方が,町のために一生懸命資料を作ってくれたのです。そういうバックアップも良かったです。全て条件が良かったですね。ほかの町村がうらやましがっていましたよね,守谷は仕事があって良いなと。

 

司会  それで,つくばエクスプレスの話ですが,今の守谷駅に新線ルートをもってくることになって,かなり反対意見もある中,区画整理事業で行うことになりました。しかし道路は非常に狭いし,海老原町にあった長龍寺の借家の立ち退きについての問題もありました。そういう状況で皆さんにご賛同いただくために,借家の方との交渉や減歩緩和などあったと思いますが,主にどんな背景があって,それによってどう進んだとか,そういったお話をお聞かせいただけますか?

 

高橋  駅前にお住まいだった方々も,区画整理とはなんぞやということは,南北団地や三井の事例などで,ある程度は理解してもらっていました。ただ,守谷東は減歩率(*)が50%強ともいわれ,駅前で減歩率がどのくらいになるのかがネックでした。駅前の町有地がどのように活用されるかという点も心配されていたようです。

    それともう一つ,以前は公共事業の移転の補償条件があまり良くなかったので,移転された後に本当に家が建つのかという,地権者の不安も大きかったようです。その二つが大きな問題になっていましたね。

 

    町有地については,大和田町長や鮎川さん,穂戸田さん,高坂さんが平成5年に完成させたもりや工業団地の整備事業での余剰金がありました。駅前の区画整理をするに当たって,駅前広場は全町民が使うのだから,周辺住民だけにその負担をさせるのではなく,町全体で負担しましょう(=その余剰金を充てる)と,そういう話を議会に持っていったのです。議会でもそれはそうだということで(工業団地のお金を使うことについて)了解が得られた,その点は今でも素晴しい選択だったと思います。

 

    次に先行用地買収(*)をするに当たって,建物移転が実際どのようになるかについて,懇談会で事例を公表したいとお願いしたところ,驚いたことに7軒の方が手を挙げてくれたのです。一般の7軒の方が,実際に建物を移転したら移転費はどのくらいもらえるかなど,実名を出して公表してよいと言ってくれました。

    そこで事例として調査して公表したら,このくらいの補償をしてもらえるのなら移転問題は大丈夫,ということになりました。こうして,移転して家を建てるお金は,大部分が家屋補償額で何とかなるという話が徐々に浸透し,理解を得られるようになったのです。この二つが大きいですね。

 

    大和田町長は,当時バブルがはじける直前でしたが,土地価格は鑑定評価をもとに買い上げました。最初は駅前は坪80万円くらいしましたよ。

 

    海老原町の借地権の問題については,鮎川さんや高坂さんなどがよくご存知だと思いますが,長龍寺も地権者との間で困っていたようです。補償割合が一番の問題でしたが,最終的にはお互い歩み寄ったということでしょうか。

    また,ネックとなった減歩率も,当初の計画であった33%を,30%以内に納めればOKという話が感触的に出てきました。そこで,大和田さんがその4%弱を先行投資として買うことにしたのです。すごいことだと思いますよ。だから地権者の皆さんが納得してくれたのです。

 

    駅前の区画整理事業は今月末(平成22年3月末)に終了しますが,1年遅れでこれだけの事業ができたというのは,市が誠実に,地権者の方々とこまめに話し合いを行い,信頼関係を築けたということでしょうね。トップに立つ市長をはじめ,職員皆さんの信用あっての事業だったと思います。

 

司会  確かに,短期間であれだけの整理を行うというのは他市町村を見ても例がないですよね。つくばエクスプレスのおかげもありましたが,地権者の皆さんに理解があったから,事業の竣工を迎えられたのだと思いますね。これは本当に大変な事業であったと思います。

 

穂戸田 あんなにあった家がどこに行ったのかと思いますよね。

 

高橋  あのときに大和田さんは,なるべく全職員を,1年でも良いから駅前整理に担当させろと言っていました。それによって地元の人との接触の仕方,対応の仕方がレベルアップされるだろうと。職員の皆さんが誠意を持って事業に当たったから(成功した)と思いますよ。私もそうですが,あの経験によって多くの職員が成長できたと思います。ありがたい話ですよね。

 

高坂  当時我々は,駅前の人たちがどのくらい出て行くか,そして戻ってくるかとよく議論したものです。計算上は半分以上は戻るだろうと踏んでいましたが,ほとんどが戻らないことになりました。

    そのとき,町はその人たちの代替地にするため,県開発公社の先買いしていた土地を買ったのです。

 

    その後バブルが来て,駅前の人たちは調整区域の広い土地に今まで以上の家を補償費で建てられるから,町で用意した土地はいらないということになりました。

    それからバブルがはじけて(土地が売れず)困ったなと思っていたら,最終的には全て売れて,損をしませんでした。これは嬉しい誤算でしたね。損をしなかったといっても,トータルの話ですがね。

    もともとは工業団地のお金が,40数億あったのです。そういうお金があったので,先行して用地を取得できたのですよね。

 

司会  今振り返ると,つくばエクスプレスの開通が5年遅れましたが,逆に言うと5年遅れなかったら区画整理はどうにもならなかったでしょうね。つくばエクスプレスが当初の計画どおり12年に開業していたら,(区画整理事業は)とても間に合わなかったでしょう。

 

高坂  そうですね,結果的に5年遅れてよかったんでしょうね。

 

穂戸田 それにしても,旧守谷の人たちは温厚ですよ。あの当時,守谷東の土地区画整理事業は坪5万円くらいの赤字を出したんですよ。普通では裁判沙汰になってもおかしくないです。なかなかこういうことはできません。

 

司会  守谷は色々な意味で,タイミングが良かったです。

    守谷東が終息できたのも,つくばエクスプレスが開通して地価が上がったということが大きいですし,工業団地もアサヒビール(株)の百周年と守谷の百周年が重なったご縁があって,あそこに誘致できました。

    開発会社からは,マンションは利根川を渡らないと言われたこともありますが,つくばエクスプレスの試運転以降,マンション建設の話がばたばたと出ました。最終的に500戸ものマンションが守谷にできたりして,我々が想定していた規模はせいぜい5~6階建てのもので,それが100mの30階建てとは予想もできませんでした。