1955年(昭和30年)合併直後の本町は,産業別従事者比率が第一次産業72%,第二次産業8%,第三次産業20%という典型的な農村地帯であった(昭和30年国勢調査)。町は将来の都市化のため,また,安定した経済基盤確立のために産業経済の体質改善を重要課題と捉え,その解決策として,1960年(昭和35年)5月,「企業誘致促進奨励措置条例」を制定。優良企業の町内誘致により町財源を確立するとともに,町内に職場を創出することで農業が主であった産業構造の転換を目指すこととした。
この企業誘致条例は,納税義務確定年度から3年間の奨励金交付,土地建物の斡旋・提供,従業員の雇用に対する援助などを定めた手厚いものであった。町は,この条例による支援措置を後ろ盾に,県の東京事務所を拠点に都内の企業訪問を繰り返し誘致活動に努めたが,道路の悪さや関東鉄道常総線の単線運転など,都心への交通体系の未整備が誘致促進の阻害要因となり,交渉は難航した。
そこで,町は企業誘致活動と並行して,常総地区開発促進協議会(*)において,取手-水海道間の2級国道(現国道294号)の早期完成や,関東鉄道常総線の電化促進などについての要望活動を行うほか,1962年(昭和37年)には利根川架橋促進協議会(*)を設置し,新高速道路と大利根架橋建設の実現に向けた運動を行うなど,都心との距離を縮めるための活動を開始した。これらの活動は,1963年(昭和38年)に筑波山麓一体へ学園都市を整備する計画が閣議決定されたことから,実現に向け大きく動き出すこととなった。
1961年(昭和36年)1月,最初の誘致企業として株式会社呉製砥所(現クレトイシ株式会社)が決定。(株)呉製砥所は研削研磨機器メーカーで,当初進出先として藤代町を検討していた。しかし,その付近が水害に遭いやすい地区であったことから代替地を県開発公社に要望。結果として守谷を紹介されたという経緯があった。(株)呉製砥所は同年3月に第一次工場建設に着工し,翌年には操業を開始した。
1962年(昭和37年)には,明星電気株式会社及び株式会社前川製作所の誘致が決定。明星電気(株)は,当初同年中に工場の建設を始める予定であったが,敷地として払い下げを予定していた旧守谷中学校敷地をめぐり民事訴訟が起こされ,計画が遅延した。この訴訟は翌年には解決したが,同社が操業を開始したのは更にその翌年1964年(昭和39年)の4月となった。また,(株)前川製作所については,町では当初郷州地区への誘致を計画し,土地所有者に協力を呼びかけていた。しかし,一部の土地買収承諾が得られなかったため,県開発公社及び通産省から工場適地として指定を受けていた「立沢,大久保団地」への誘致となった。誘致時(昭和38年)の取得面積は20haとなり,まず1965年(昭和40年)に立沢工場が操業開始。その後1969年(昭和44年)に守谷工場第一次計画起工式が開催され,約8,000㎡分の工場の工事が着工し,翌年に操業が開始された。
このほか,同時期にいくつかの中小企業が町内に立地し,一定の成果を上げたとして,企業誘致条例は1963年(昭和38年)に廃止されることとなった(条例による優遇措置適用を受けた企業は,(株)呉製砥所,明星電気(株),(株)前川製作所の3社のみ)。
1966年(昭和41年)6月,町を含む県南・県西13市町村は首都圏近郊整備法に基づく首都圏近郊整備地帯(*)の指定を受けた。国はその後,首都圏近郊整備地帯は計画的かつ緑地空間と調和のとれた市街地展開を図るとともに,大規模住宅団地や工業団地を適切に配置するという具体的な整備計画を決定した。
これを受け,町は1970年(昭和45年)に,既成市街地と住宅公団による北団地開発予定区域に加え,(株)前川製作所が立地した「立沢,大久保団地」区域を工業地域予定地として市街化区域に区分することを都市計画決定(それ以外の町域は市街化調整区域)。同時に企画開発課を新設し,国が示した近郊整備地帯整備計画に則した都市化方針を明確にした。こうして,まずは日本住宅公団(現独立行政法人都市再生機構)(*)による宅地開発計画を進めていくこととなったが,工業団地整備についてはしばらく具体的な誘致計画が検討されなかった。
しかし,日本住宅公団や民間による大型宅地開発が進捗すると,その後急増するであろう人口に対応するため,財源確保及び職住一体のまちづくりの必要性が高まり,工業団地誘致の推進が急務となってきた。
そこで,土地改良及び大野川完全改修を前提とした総合的な土地利用が検討されていた町西部地区(大野地域)へ新たに工業団地を誘致する計画が浮上。1976年(昭和51年)策定の守谷町振興計画でも,大野地域への工業団地計画の推進が明文化された。
1980年(昭和55年),工業団地計画について対象地区地権者へアンケート調査を実施したところ,回収率75%のうち賛成が8割を超えるという結果となった。これを受けて町は,1982年(昭和57年)に工業団地造成事業の実施について住宅・都市整備公団(以後住都公団,元日本住宅公団)(*)に依頼。1984年(昭和59年)には住都公団を事業主とする工業団地造成計画が決定され,地元意向調査や地権者説明会,関係者の先進地視察など,事業推進に向けた動きが開始された。
しかし,1986年(昭和61年)に行革審(*)から特殊法人などの事業の見直しを求める答申が出され,住都公団に対しても事業区域や分野の限定,新規事業の抑制等の方向性が示された。このため,公団側から事業辞退の申し出がなされ,事業主体について再検討することが必要となった。
関係者を交え協議を重ねた結果,一度は大手建設会社等が参加する組合土地区画整理事業を計画したものの,地権者や立地予定企業の意向により,1987年(昭和62年)に町施行の土地区画整理事業とすることが決定された。
1988年(昭和63年)7月,立地企業の選定を行う守谷町工業団地土地区画整理事業立地企業選考委員会(*)を設置し,公害等の恐れのある企業を排除する方針を明確にし,8月には,事業区域の市街化区域編入及び土地区画整理事業の都市計画が決定した。もりや工業団地は,新大利根橋有料道路や常磐自動車道によって都心と直結されているうえ,町施行であるため事業の確実性もあるという,企業にとって魅力的な進出先であった。このため,8月末時点での立地希望企業数は31社に上っていた。
同年10月に県知事から事業認可が下り,11月に起工式を開催した後は建設工事が急ピッチで進められ,1992年(平成4年)には工業団地名を「もりや工業団地」と決定し,団地入口のシンボルゲート及び団地内を通過する北園野木崎線の供用を開始,1993年(平成5年)11月にはもりや工業団地として竣工。竣工時はアサヒビール(株),(株)アサヒカーゴサービス東京,(株)細野,日本コダック(株)など,町内外の企業13社が立地することとなった(平成18年現在24社が立地)。
特にアサヒビール(株)は,1987年(昭和62年)という早い時期に現地視察に入り,翌年には町と土地売買に関する協定を交わした。1989年(平成元年)4月には起工式を開催,その際に建設費2億円を投じて団地内に国際交流センターを建設し,町に寄贈することが約束された(1990年(平成2年)国際交流研修センター竣工)。同年6月に工場建設工事が着工,1991年(平成3年)には茨城工場が竣工した。その後,2008年(平成20年)にアサヒ飲料(株)柏工場の製造機能が移管され,ビール以外の製品製造も開始することとなり,2010年(平成22年)には年間生産量がビール類大瓶換算で年間6.7億本,缶酎ハイや清涼飲料水350ml缶で5.3億本に上る主力工場となっている。
また,野木崎字沼田沖地区は,1977年(昭和52年)に全国競走馬農業協同組合が「競走馬育成施設開発事業」を予定して県から立地承認を得ていた土地であったが,1991年(平成3年)に同組合が事業の実施を断念してからは「沼田沖未利用地」として土地利用を巡り色々な計画が照会されていた。地元地権者からは「町もしくは県での利用が不可能なら,雇用機会があり,公害の恐れのない企業の誘致をして欲しい」という要望が出される中,1992年(平成4年)に明治乳業(株)から該当地区への研究施設等の立地計画について打診を受けた町は,この計画を推進していくこととした。同年,全国競走馬農業協同組合から正式に事業取下げ申請が提出されると,明治乳業(株)から「県土利用の調整に関する基本要綱」に基づく事前協議申請が提出され,以後,関係機関の協議を経て,1994年(平成6年)に明治は開発面積約11.3haの開発許可を取得。1998年(平成10年)6月,明治乳業(株)守谷工場及びみるく館の操業が開始された。
一方,1970年(昭和45年)の区域区分設定時に工業専用地域として指定された立沢地区については,(株)前川製作所の誘致以降,町は特段の企業誘致活動は行わなかった。しかし,国道294号などの幹線道路沿線にあるという立地条件に加え,上述の通り交通網整備が進むにつれ,様々な企業が進出し,現在では対象地区の96%を超す範囲に様々な業種の工場や物流センターなどが立地している。
2004年(平成16年)には,付近の事務所・工場などが連携し,事業活動の促進とともに地域環境の整備推進を図るために,百合ケ丘産業地域協力会が発足。当初会員は一帯の製造業・サービス業40社に上った。その後,2009年(平成21年)に対象地域を市内全域に広げ,守谷産業地域協力会と名称を改め,市や商工会とともに地域活性化のために活動する組織へと発展した。
このように,1960年代から始まった企業誘致活動は,1993年(平成5年)のもりや工業団地の竣工で一応の終息を見た。初期の誘致活動により立地した3企業のうち,明星電気(株)は2005年(平成17年)に,クレトイシ(株)は2007年(平成19年)に撤退したが,現在市内に設定されている工業専用地域はいずれも飽和状態となっている。
2005年(平成17年)の国勢調査では,市の産業分類別就業者比率は第一次産業1.4%,第二次産業29.8%,第三次産業68.8%となり,合併当初データと比率が完全に逆転。当初の目的であった「産業経済の体質改善」は達成されたが,市内就業者のうち市外従業比率は61.8%(平成17年国勢調査)に上っており,今後のまちづくりには,職住一体の視点も必要と言えよう。