1950年代後半から1970年代にかけての高度経済成長に伴い,東京を中心とする大都市地域への人口,産業の集中は著しいものとなり,市街地の無秩序な拡大,交通混雑など都市化の弊害は全国的に深刻化した。
国は,大都市市街地の人口,産業を周辺の衛星都市に適切に分散誘導させるため,総理府外局として首都圏整備委員会を設置。委員会は,1961年(昭和36年)に東京に立地する必要のない試験研究機関や教育機関等を,地方に計画的に移転させる官庁都市案を発表し,閣議決定された。
当初は移転先として富士山麓,赤城山麓,那須高原,筑波山麓が候補に挙げられたが,幾度かの視察検討の結果,東京から距離が近い,霞ヶ浦から十分な水が採取できる,地盤が安定した平坦地であるなどの理由により,筑波山麓一帯(4,000ha)を移転先とすることが閣議決定された(1963年(昭和38年))。
この研究学園都市指定を皮切りに,茨城県県南地区は新高速道路(現常磐自動車道)や大利根架橋(現新大利根橋有料道路)の建設が相次いで決定され,急増する首都圏の住宅需要と工業地需要の受け皿地区として一躍注目されるようになった。
1966年(昭和41年)6月,守谷町を含む県南県西地区13市町村(龍ヶ崎市・水海道市・取手市・牛久町・伊奈村・谷和原村・守谷町・藤代町・利根町・五霞村・猿島町・岩井市・境町)が首都圏近郊整備法に基づく近郊整備地帯として指定された。
「近郊整備地帯」は,緑地と共存した計画的な市街地整備を図るべき区域とされていたため,県は同年12月に取手市・守谷町・藤代町・利根町を取手都市計画区域として指定し,対象区域で計画的に都市型まちづくりを推進していくこととした(1969年に利根町が都市計画区域から除外された)。
1968年(昭和43年)には都市計画法が全面改正され,都市計画区域を市街化区域と市街化調整区域に区分する制度が定められた。また同年,首都圏整備委員会は第二次首都圏基本整備計画を決定,翌年8月に首都圏近郊整備地帯整備計画を決定し,近郊整備地帯に大規模住宅団地と工業団地等大規模事業等を適切に配置するという具体的な整備計画を提示した。
この流れを受け,日本住宅公団は,茨城県県南地区一帯を首都圏の人口を受け止める住宅地として開発するため,関東鉄道常総線の沿線市町村に対し区画整理事業方式による宅地造成計画の打診を行った。
町は当時,駅周辺など一部で小規模な乱開発が始まっていたこともあり,その抑止のためにも計画的な大規模開発を導入する方向で検討。1968年(昭和43年)4月には,町執行部や議員,農業委員など関係者が,千葉県内にある日本住宅公団開発地の視察を行い,5月発行の広報紙において,南守谷駅周辺から乙子一部,本宿,鈴塚にかけての南地区(約150ha)と,立沢から板戸井一部の北地区(約250ha)を宅地開発するという日本住宅公団の事業計画を公表した。しかし,特に南地区の計画対象地のほとんどは農地であったため,離農問題が問題視されて反対運動が起きることとなった。
このように,区域区分の設定や日本住宅公団による宅地開発計画など,今後の開発整備方針の明確化を迫られた町は,将来像に直結する重要案件であるため,1968年(昭和43年)に都市計画委員会(*),翌年に都市開発対策協議会(*)を設置し,地権者を交えて慎重に協議していくこととした。
この結果,町は1970年(昭和45年)に,日本住宅公団による開発区域のうちの北地区及び既成市街地,工業地域予定地を市街化区域に,それ以外を市街化調整区域とする区域区分を都市計画決定し,同時に,スプロール化を未然防止し,計画的な大規模住宅団地の造成と工業誘致を進めるという都市化方針を明確にし,それを推進するための企画開発課を新設。以後,大規模宅地開発計画とそれに伴う上下水道整備事業,工業団地計画などを積極的に推進していくこととなった。
1970年(昭和45年),日本住宅公団は南北対象区域の地権者に対する都市開発同意書の取りまとめを開始した。このうち北団地の同意取付けは順調に進み,同年5月には計画予定面積の70%,7月にはほぼ100%に達したため,地権者代表者との用地買収価格の協議を行い,9月から12月にかけて買収を実施した。
また,北団地区域のほぼ中央にあった大八洲開拓団素住台地区21戸の地区外移転についても日本住宅公団による補償が確定し,1971年(昭和46年)1月,北守谷土地区画整理事業施工区域(立沢から大山新田,板戸井,大木にわたる約260.5ha)が都市計画決定された。当初は,計画人口を32,000人とし,区域内への商業施設や小学校4校,中学校2校などの教育施設のほか,病院,常総線新駅と,現存植生を生かした緑地や公園の設置が予定された。
1976年(昭和51年)5月に,常総ニュータウン北守谷地区土地区画整理事業として事業認可を受け,造成工事が開始され,1982年(昭和57年)4月,御所ケ丘,久保ケ丘で一部入居が始まり,御所ケ丘小学校が開校した。翌5月には,立沢公園で街びらき式が開催され,大山公園・都市計画道路・自転車歩行者専用道路・遊歩道の一部供用と,関東鉄道常総線新駅となる新守谷駅の営業が開始された。
その後も区域内の公共施設整備は進み,1984年(昭和59年)4月には自転車歩行者専用道路の竣工と名称決定(「北守谷遊歩道」)を記念し,北守谷遊歩道道開きとして第1回町民健康マラソン大会が実施された。これは現在,コースや距離を変更し,守谷ハーフマラソンとして受け継がれている。そして1985年(昭和60年)11月に事業竣工,ここに現在1万7千人余が住む「常総ニュータウン北守谷」が完成した。その後も,1987年(昭和62年)にショッピングセンター開店,1990年(平成2年)総合守谷第一病院が開業と,地域生活の利便性は一層向上した。
一方,日本住宅公団によるもう一つの宅地開発予定地である南地区については,地権者の同意が得られず,1970年(昭和45年)5月時点で22%にとどまっていた(同時期の北団地同意率は70%)。これは,北団地に比べ農業が盛んで農地利用が多かったことと,比較的町外地権者が多かったことが原因であった。
しかし,1970年(昭和45年)から米の生産調整政策が始まると,農地に関する地権者の意識は少しずつ変化し始め,また,地区ごとの説明会実施や個別訪問による説得も功を奏し,1972年(昭和47年)6月時点で開発同意取付けが83%となり,用地買収契約が進められた。この結果,同年12月に計画区域の市街化区域編入が決定し,1973年(昭和48年)2月には南守谷団地土地区画整理事業施工区域が都市計画決定された。当初は,事業区域は大字守谷,高野,大柏,鈴塚,乙子の一部で合計158.7ha,計画人口21,000人,既設の南守谷駅を移設して駅前広場を新設,その周辺への商業地計画のほか,小学校3校,中学校2校などの教育施設を設置する計画であった。
こうして,1979年(昭和54年)1月に南守谷特定土地区画整理事業として事業認可を受け,造成工事に着手。1987年(昭和62年)10月には初回の宅地分譲が始まり,1988年(昭和63年)に町名を松ケ丘・けやき台に変更し,同年10月に事業が完了,「常総ニュータウン南守谷」としてけやき台公園で竣工式が開催された。
以降,日本住宅公団による南北団地は順調に人口が増加したが,両地区とも当初見込んでいた計画人口に至らないことが決定的となったことから,薬師台二丁目及びけやき台三丁目の中学校予定地が民間事業者に払い下げられることとなった。現在では,両地区とも民間事業者による宅地開発が行われ,「薬師台ひかる野地区」(2007年竣工),「The premiumけやき台ハートフルタウン守谷の杜」(2009年竣工)として住宅分譲が進んでいる。
また,日本住宅公団による開発同意取付けが始まったころ,町東南部に位置する郷州地区では,三井不動産株式会社による宅地開発計画が浮上していた。
1960年代の企業誘致時代,郷州地区は一時前川製作所の誘致先として計画されたこともあったが,地権者の合意が得られなかったため放置され,谷津田の広がる荒廃地となっていた。用地の取得は1972年(昭和47年)から始められ,三井不動産はこの地に開発行為による大型宅地開発を計画した。
しかし,当時郷州地区は市街化調整区域であったため,県による開発行為事前審査の調整が長引き,3年後の1975年(昭和50年)になり有効宅地率50%という条件付で,ようやく基本的了解が得られることとなった。
当初この計画に消極的であった町も,南北団地のみならず全町的に下水道整備を広げる機会として,1976年(昭和51年)に策定された守谷町振興計画では対象区域を住宅地として開発すると明記し,積極的に支援する姿勢に転じた。
開発に先立ち,当地区は昔から農作業等で石器や土器が出土する地域であったため,文化財保護法による発掘調査が必要となった。このため,1977年(昭和52年)12月の埋蔵文化財予備調査を経て,1978年(昭和53年)3月に守谷町郷州原遺跡発掘調査会を設置し,同年8月から翌年3月にかけて発掘調査を実施。調査結果は冊子としてまとめて記録保存を行うとともに,一部を文化財公園として保存することとなった。この調査が終了した1979年(昭和54年)3月,民間デベロッパーによる町内初の大型宅地造成のための開発行為許可がおり,開発面積78.9ha,計画人口8千人とする宅地開発計画が動き出すこととなった。
1981年(昭和56年)に着工した造成工事は急ピッチで進行し,翌年には町名をみずき野一丁目~八丁目とし,日本住宅公団北守谷団地と同時に一部入居が開始された。1983年(昭和58年)4月に,区域内の主な公園(みずき野中央公園・郷州文化財公園・どんぐり公園・かきのき公園)及び郷州沼崎線の供用が開始され,1985年(昭和60年)6月には道開きを開催。こうして,独自の建築協定(現在は市の地区計画へ移行)で守られた統一感ある街並を特徴とする「みずき野地区・パークシティ守谷」が誕生。1990年(平成2年)には,美しいデザインが評価され,人間道路会議賞を受賞。その後も宅地分譲を何期にも分けて行い,最終期となる1995年(平成7年)までに全1,735区画が分譲されている。
また,同時期に三井不動産は,日本住宅公団による南守谷団地開発区域に含まれなかった乙子高野地区についても,土地区画整理事業方式による宅地開発を計画していた。対象地区は当初市街化調整区域であったため,1981年(昭和56年)4月から地元説明会などを開催し,開発について地権者の同意3分の2を取り付け,11月には町に対して対象地区を市街化区域へ編入するよう要望した。
町でも,1985年(昭和60年)策定の第二次守谷町振興計画において「千葉県からの玄関口であり,今後乱開発のおそれがある」として,対象地区を計画的な開発促進地区に位置づけ,支援する姿勢を示した。
こうして1986年(昭和61年)に入って用地取得が開始され,翌年,乙子高野土地区画整理事業の組合設立準備委員会が発足。1993年(平成5年)5月に,乙子高野土地区画整理事業(開発面積33.0ha,計画人口3,300人)として施工区域等が都市計画決定され,対象区域は市街化区域に編入された。同月,三井不動産,金子不動産センター,地権者共同による土地区画整理組合が設立認可申請を行い,9月に認可を受けた後,10月には造成工事が着工された。
1995年(平成7年)9月には街の名前を美園とし,11月に一部入居が開始された。1999年(平成11年)9月,換地処分に伴い住所が正式に「美園」となり,「ヒルズ美園」が完成,翌10月に竣工式が開催された。
このように,町内の住宅開発計画が本格化するに伴い,計画的な住環境整備の必要性が高まり,特に上水道については,1968年(昭和43年)に実施した市街地水質検査で70%が飲料不適という結果となっており,早急な整備が望まれていた。このため,翌年に上水道対策特別委員会が設置された。
町は,日本住宅公団による南北団地開発区域に併せ,市内全域に上下水道を普及させることを目指し,まずは1971年(昭和46年)11月,当時県下最大規模となる簡易水道事業の建設に取りかかった。翌年12月には守谷地区一部への給水を開始,1974年(昭和49年)には給水区域を原,北園,岩町などへと拡張。この後,給水区域を既存市街地,宅地開発区域と順次拡張させ,最終的に全域普及を果たすことを目指し,1978年(昭和53年)に公営企業守谷町上水道事業を創設した。その後,1980年(昭和55年)の水道事務所竣工とともに第一次拡張事業を実施,計画給水人口54,500人,計画1日最大給水量22,000㎥とした。
南北団地への入居が始まると,その人口増に対応するため,1982年(昭和57年)に茨城県企業局施行の県南広域水道用水供給事業(利根川浄水場)から受水を開始するとともに,第2次拡張事業として,未着手であった農村地区の配水管網整備を進め,1986年(昭和61年)には川西地区(板戸井及び大木の一部)を除く全町への給水体制整備が完了した。
川西地区については,1977年(昭和52年)4月に発足した板戸井川西地区簡易水道事業が給水を行ってきたが,2009年(平成21年)4月に上水道事業と統合され,ここに上水道市内全域拡張が終了した(計画給水人口68,240人,計画1日最大給水量24,200㎥)。
下水道事業については,1972年(昭和47年)に企画開発課内に下水道係を設置,1975年(昭和50年)公共下水道計画が都市計画決定され,事業区域を北守谷地区と定めて工事に着工した。その後,1978年(昭和53年)に既存市街地及び南守谷地区,翌年にはみずき野地区と順次事業区域を拡張し,1981年(昭和56年)に浄化センターの通水式を行い,区域一部で供用を開始した(普及率6.2%)。翌年には事業認可区域を工業専用区域及び市街化調整区域へと拡大して供用を開始(普及率21.2%)。その後も事業認可区域の拡大と供用開始を繰り返し,1999年(平成11年),その普及率は90%を超過した。汚水管配備が未整備であった西板戸井地区についても,2000年(平成12年)9月に農業集落排水処理場が竣工し,同年10月から供用を開始した。
2005年(平成17年)には,下水道事業に地方公営企業法の全部を適用して水道事務所と組織統合。現在,守谷市上下水道事務所上下水道課として事業運営に当たっており,その普及率は2010年(平成22年)3月末時点で上水道99.35%,下水道98.90%にのぼっている。
一方,計画的な大規模開発から取り残された旧市街地周辺地区は,特に谷津田となっていた旧市街地東側が荒廃化し,問題となっていた。この地区について,町は土地区画整理事業により一体的に整備すべきと考え,地権者と協議を行ってきた。この結果,1982年(昭和57年)に,(仮称)守谷東土地区画整理事業として進めるための区画整理組合設立発起人会が発足。計画内容について町議会及び町都市計画審議会で協議を重ね,1988年(昭和63年)8月に施行区域(開発面積39.5ha)とその市街化区域編入が都市計画決定し,同年12月に県から守谷東特定土地区画整理事業として認可がおり,町で初めての地権者で構成された土地区画整理組合が設立された。
また,常磐新線(現つくばエクスプレス)の建設計画が本格化する中,1989年(平成元年)には「大都市地域における宅地開発及び鉄道整備の一体的推進に関する特別措置法」(宅鉄法)が制定された。これにより,都市計画区域内にある駅設置予定地とその付近で,公共施行の一体型土地区画整理事業による住宅用地や公益施設用地,鉄道用地の集約換地が可能となったため,町は駅周辺を一体型土地区画整理事業として整備しながら,近接する守谷東地区についても駅前と連動した土地区画整理事業として推進していくこととした。
この結果,守谷東特定土地区画整理事業は常磐新線計画の決定を待つこととなり,事業認可から6年経過してようやく仮換地指定という大幅な遅れが生じることとなった。保留地販売は1996年(平成8年)から始まったが,常磐新線開業延期の影響もあり販売実績が振るわず,2000年(平成12年)には保留地価格の見直しを行ったが,状況は変わらないまま事業費は大幅に増大した。地権者の負担も増大が懸念され,1999年(平成11年)には,これ以上の事業費増を回避するため,場外馬券売場の誘致計画も浮上したが,市に不要な施設として断念された。
しかし,常磐新線開業が現実化してくると市内の地価下落率は縮小し始め,開業時の2005年(平成17年)には上昇に転じた。停滞していた換地処分も順調に進み,2004年(平成16年)12月には一帯の住居表示が「ひがし野」に変更。2007年(平成19年)3月に,予定より11年遅れて事業終了となり,現在では計画人口2,400名を超す2,700余名が居住する街区となっている。
一方,守谷駅周辺地区については,先に述べた宅鉄法の制定により,一体型土地区画整理事業として新線用地を確保するとともに「新しい守谷の顔」として整備を進めることとされた。このため,地域意向を聴取しようと,1989年(平成元年)に駅周辺40.6haの地区住民を対象とする「守谷駅周辺整備構想に向けてのアンケート調査」を実施し,約8割から整備必要との回答を得た。
その後,地権者代表者会議(1990年第1回開催)や事業計画公聴会(1993年開催)などで整備計画概要の説明と意見聴取を重ねるとともに,1993年(平成5年)には地域住民からの新線整備や駅前地区の整備に関する総合的な相談窓口として,駅前相談所を開設した。
こうして1994年(平成6年)に守谷駅周辺一体型土地区画整理事業として都市計画決定(開発面積38.7ha,計画人口3,800人),翌年9月には地盤改良工事が起工した。
しかし,この駅前整備計画は,区域内の約3haが鉄道用地として減歩された後に,公共用地が更に減歩されることから減歩率が高くなる上,居住者の高齢化,過小宅地密集地域という悪条件も重なり,地権者側に換地への不安が募り事業は難航した。町は事業計画決定後も,守谷駅周辺まちづくり懇談会や駅周辺事業土地区画整理審議会,町議会などで説明を重ね,理解を求めていった。
1998年(平成10年),この守谷駅周辺一体型土地区画整理事業は,ふるさとの顔づくりモデル土地区画整理事業のモデル地区に指定され,翌年には事業区域の用途地域変更(商業地域・近隣商業地域・準住居地域・第1種住居地域へ),地区計画(防火地域・準防火地域などの指定)が決定し,区域内整備工事も,守谷駅工事,都市軸道路工事と順次着工された。
その後も駅前広場や駅舎工事が進む中,守谷駅周辺を秩序ある魅力的な駅前空間とするため,駅前の商業街区及び街区内宅地の共同利用を図ろうと,地権者へ協力を求めることとした。また,2004年(平成16年)に公布された景観法に基づき,駅前を秩序ある良好な景観に保つため,建築物等の配置や規模,色彩などに制限を課することのできるよう,景観計画と条例の制定に向けての作業も開始した(守谷市景観計画及び守谷市景観法の施行等に関する条例施行は平成19年)。
常磐新線開業時の2005年(平成17年)には,駅前広場,駅東西自転車駐車場,都市軸道路が供用開始され,2006年(平成18年)12月には区画整理地内で第1期の宅地分譲が開始。市内の地価も上昇し,この年一年間の市への転入者数は4,500人を超えた。2010年(平成22年)2月には,事業地内の換地処分公告が行われ,これに伴い町名地番が中央一丁目~四丁目に変更された。
しかし,駅前の土地の共同利用については,関係地権者との合意取付けが難航。民間事業者との個別利用に傾く地権者が多く,結果的に,市民から要望の多かった西口広場への駅ビル等の施設整備は果たせなかったが,2009年(平成21年)には賑わい創出事業として東口駅前に商業医療複合施設「アワーズもりや」がオープンした。
また同年,撤退後,土地利用が長く決まらなかったクレトイシ(株)工場跡地については,近隣との一体的な土地利用を考慮の上,地権者の要望等を基に新たな市街地形成を実施することが決定(松並土地区画整理事業)。併せて隣接する原東地区についても開発を行うこととなり,いずれも2009年(平成21年),翌年の事業開始に向け,守谷市松並土地区画整理組合設立準備会,守谷市原東土地区画整理組合設立準備会が発足した。
松並土地区画整理事業については,対象区域41.8ha,計画人口5,000人,ポケットパークを含む6箇所の公園の整備を予定。現存する松並木や区域内にある永泉寺境内の樹林等の良好な環境・景観を保ちつつ,多様な住宅・宅地と商業業務施設の整備を計画し,平成27年度の完成を目指して進行中である。