(3)つくばエクスプレス

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 2005年(平成17年)8月24日,秋葉原~つくば間を45分で結ぶ高速鉄道として開業したつくばエクスプレスは,1978年(昭和53年)に茨城県が提起した「第二常磐線構想」に端を緒するものであった。

 当時は高度経済成長の進行に伴い,人口や産業が首都圏へ過度に集中し,その弊害として都心方面の道路交通渋滞や鉄道混雑等の問題が全国的に深刻化していた。都心と茨城県とを結ぶ常磐線も同様の状況にあり,今後の発展のためには独自の鉄道網計画を持つべきと考えた当時の竹内県知事は,1976年(昭和51年)に茨城県県南県西地域交通体系調査委員会(*)を設置し,2年の歳月をかけて調査結果を「県南県西地域交通体系整備計画調査」として発表。常磐線の輸送力増強のためには線増が必要であり,かつ,沿線の市街地化を考慮すると別線とするのが妥当と結論付け,それを先述の「第二常磐線構想」として提起した。この時点では,筑波研究学園都市と都心との直結が新しい地域開発を可能とするとして,都内から水海道,学園都市を経由し,水戸までを結ぶルートを構想していた。

 県は,1980年(昭和55年)7月に策定した「第二次県民福祉基本計画」の中で第二常磐線の具体化について明文化したほか,1983年(昭和58年)には第二常磐線と地域開発に関する調査研究会(*)を設置し,研究学園都市と都心を結ぶルートについて,混雑緩和や地域開発効果,採算性などを比較調査させた。研究会は翌年,調査結果を「第二常磐線と地域開発に関する調査研究会報告」として県議会(常磐新線・鹿島線・北関東横断道路調査特別委員会)に提出。想定される4ルート(A柏北部~取手~学園都市,B柏北部~守谷~学園都市,C柏北部~水海道~学園都市,D北千住~七光台~石下~学園都市)のうちABC3ルートは「採算性がとれ成立可能」と結論付けた。

 これを受け,県は第二常磐線研究会(*)及び第二常磐線建設促進期成同盟会(*)を設立。前者は,諸条件について実現に向けたより詳細な検討を,後者は国への要望活動等を開始することとなった。

 

 一方,首都圏の交通網整備計画策定を検討していた国でも,運輸政策審議会(*)に東京近郊の鉄道網の見直しについて諮問し,1985年(昭和60年)7月に「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」の答申を受けた。答申では,最混雑時間の混雑率が200%を超える路線について,新線建設や複々線化により混雑を緩和すること等がうたわれており,中でも常磐新線は「都市交通対策上喫緊の課題」であり「具体化を図るべき」路線とされていた。

 このとき提示されたルートは,東京駅を基点とし,秋葉原,浅草,北千住,八潮市,三郷市,流山市,柏市を経て当町南部を通り,筑波研究学園都市まで約58㎞を結ぶもので,「第二常磐線と地域開発に関する調査研究会報告」で採算が取れるとされた3ルートのうちの1つ,Bルートであった。うち,特に東京-守谷間は「目標年次(昭和75年)までに新設することが適当」とされ,運輸省は同年9月に常磐新線の整備方策についての方針を関係都県に提示した。

 県はこれを受け,県内の常磐新線促進をめぐる4つの組織を一本化させた茨城県常磐新線等整備促進期成同盟会(*)を設立。12月には関係自治体の検討の場として常磐新線建設促進関係都県連絡協議会(*)を発足させた。

 

 町でも,1985年(昭和60年)3月に策定した第二次守谷町振興計画で,「第二常磐線の具現化」と初めて文言化したほか,運輸政策審議会答申直後の8月発行の広報紙で,「住宅団地等への入居促進のため交通網の強化を望んでいた本町にとって,大きな朗報」として,答申の概要と今後の課題について町民に説明している。

 一方で,町は,1913年(大正2年)の鉄道開設当初からほぼ変わらない常総線守谷駅とその周辺地区の再開発を,(仮称)守谷東土地区画整理事業区域とともに,常磐新線整備とあわせ一体的に推進させたいと考え,独自に町中央を通すルートの構想について検討を始めた。

 1985年(昭和60年)11月,県と共同で常磐新線守谷ターミナルとまちづくり懇談会(*)を設立し,新駅建設と一体となった周辺地区整備を実現するため,関連用地確保計画や資金計画の検討,ターミナル整備調査,守谷町まちづくり調査を実施した。これらの調査では,町の将来像を見据えて,特に常磐新線の通過位置が詳細に検討され,1987年(昭和62年)には懇談会報告会として「常磐新線とまちづくりシンポジウム」が開催された。そこでは,常磐新線建設計画とまちづくりが互いに重要で密接な関係にあることが改めて強調され,シンポジウム後は県知事等を迎えて守谷町常磐新線建設促進大会が同日開催され,約700名の町民が参加する中,知事に対して常磐新線早期建設についての決議文が提出された。

 

 また,1986年(昭和61年)に,守谷町市街地整備基本計画策定委員会(*)を設置。以降2か年をかけて,常磐新線建設計画とその他の上位計画を整合させた市街地全体の整備計画が検討され,守谷駅周辺地区の整備については,次の4つの基本方針が定められた。

 

①鉄道乗降が容易に出来る駅設備と交通広場を整備する

②人々が集い交流する賑わいに満ちた地区とする

③訪問者に住んでみたいと思わせる駅前景観を形成する

④ゆとりを持った快適な駅前空間を形成する

 

 一方,その後の国・県の動きとしては,1986年(昭和61年)1月に運輸省・関係都県の協議の場である常磐新線整備検討会(*)が,2月には沿線市町村の協議の場である常磐新線建設促進都市連絡協議会(*)が相次いで発足。1987年(昭和62年)9月には運輸省審議官・関係都県副知事・JR東日本副社長から構成される常磐新線整備検討委員会(*)が発足し,運営について詳細な検討がなされることとなった。同委員会は1988年(昭和63年)に,整備主体はJR東日本に運営を任せる第3セクター方式とすること,開業時期は2000年(平成12年)とすること,関係自治体は用地の先行取得を推進すること,などを主要点とする「常磐新線整備方策の基本フレーム」を発表し,その具体化を進めることで合意した(その後JRは整備主体参加を見送った)。

 この内容のうち,沿線自治体に任された用地の先行取得について,当時は土地価格の急騰が全国的な問題となっていたため,国は1988年(昭和63年)に「総合土地対策要綱」(*)で,宅地開発と交通アクセス整備を一体的に進めることを閣議決定し,翌年に「大都市地域における宅地開発及び鉄道整備の一体的推進に関する特別措置法」(通称「宅鉄法」)を制定。これにより,「宅地開発と鉄道整備の一体的推進拠点となる地区(=重点地域)」では,公共施行の一体型土地区画整理事業による鉄道用地の集約換地ができるという特別措置が認められるようになり,鉄道用地の取得が比較的容易になった。

 

 これらの動きを受け,町で1989年(平成元年)に駅周辺地区住民を対象として実施した「守谷駅周辺整備構想に向けてのアンケート調査」でも,半数が「守谷駅を駅周辺と一体的に整備すべき」と回答。「駅施設及び駅前広場の早急な整備が必要」との回答は約8割にも上り,新駅とその周辺整備については,「常総線守谷駅を常磐新線とのターミナル駅として整備し,ターミナル駅周辺地区を新しい守谷の中心拠点として守谷のシンボルとなる魅力に富んだ地区に整備する」とする整備計画が確定。

 こうして,常磐新線と常総線の連結駅を守谷駅とすることとともに,新線用地を守谷駅周辺一体型土地区画整理事業の中で確保しつつ,守谷東土地区画整理事業についても新線整備や駅周辺の開発と連動させ,一体的に推進する方針が明確にされた。

 1991年(平成3年)には守谷町常磐新線協議会(*)を設置し,常磐新線導入に伴う沿線開発と鉄道整備を計画的・一体的に進めるため,土地区画整理事業の手法や新線の構造,都市軸道路の敷設などについて具体的な検討を開始した。県境から守谷駅を通りつくばみらいへと続く町内全体のルートについても,常磐自動車道橋梁と利根川両岸にある調節池との距離や,学校・社寺・病院・民家への支障や守谷東土地区画整理事業区域との距離等を考慮して決定されていった。

 

 このように沿線自治体で準備作業と推進気運が高まる中,1991年(平成3年)3月,事業主体となる首都圏新都市鉄道株式会社(*)が設立された。建設資金は,鉄道整備基金法(1991年4月制定)に基づき創設された大都市鉄道整備の無利子貸付事業の対象となったことで確保され,1992年(平成4年)1月に鉄道事業免許を取得。諸条件が整い,1993年(平成5年)1月に常磐新線計画で初めての工事となる秋葉原・新浅草間工事施工が認可され,翌年10月には秋葉原で常磐新線建設起工式が開催された。こうして,県が第二常磐線構想を発表してから16年の歳月を経て,常磐新線工事が始まることとなった。

 

 当初町内には,全線地下方式を希望する意見が多く,特に大柏地区常磐新線対策協議会からは町議会に対して請願書や陳情書が提出されるなど強い意向があり,議会も首都圏新都市鉄道(株)に対して「全線地下方式による早期路線決定」を要望するなど働きかけを行っていた。

 しかし,建設期間の長期化,コスト増大などの理由から,町は高架方式を支持。公聴会や区長会議,議会などで説明を繰り返し,住民の理解を得ていった。

 1994年(平成6年)1月,町内を通る守谷・伊奈・谷和原間11.7㎞について工事施工が認可され,1995年(平成7年)7月に県内初の工事となる車両基地(守谷車庫)工事の安全祈願祭が谷和原村筒戸で開催され,工事が着手された。

 1996年(平成8年)4月,町は2課(新線対策課・駅前整備課)に分かれていた新線業務を常磐新線推進部として一本化,翌年4月には常磐新線推進部と都市整備部を統合するなど,事業推進のための組織変更を実施した。

 

 しかし,1996年(平成8年)10月,首都圏新都市鉄道(株)は事業費を増嵩(8千億円から1兆500億円に)し,開業時期を平成12年度から17年度に延期するという整備計画の見直しを決定し,12月に新聞紙上などで公表した。

 一方的な見直しに対し,沿線市町村は一斉に反発。町でも首都圏新都市鉄道(株)及び県に対し,開業年度を遵守すること,今後沿線市町村の負担増がないようにすること,計画変更の際は関係自治体と事前協議することなどを要望する議会決議文を提出し,今後の対応を約束させたが,この計画変更により沿線市町村負担金は増額され,完成時期も大幅に遅れることとなった。

 

 その後,町内工事は1997年(平成9年)1月に小貝川橋梁工事,翌年5月には都市軸道路(小貝川右岸~谷和原村筒戸まで400m)(*),1999年(平成11年)1月大柏高架橋,同年6月に土塔高架橋,と順調に工事が着手されていった。

 2001年(平成13年)には,新線名称「つくばエクスプレス」,沿線地域愛称「みらい平・いちさと」のほか,シンボルマーク及びロゴタイプも決定。この年の12月には,新線最初のレール敷設となるレール発進式が,車両基地内で開催された。

 2002年(平成14年)4月には守谷駅周辺一体型土地区画整理事業区域内の都市軸道路「(仮称)守谷トンネル」工事が開始され,翌年,車両基地に車両が到着,2004年(平成16年)3月から守谷・みどりの駅間で走行試験が開始された。同年5月には,全線のレールがつながり,これを記念して町民対象の親子見学会及びレールウォーク守谷大会が開催された。その後は全線で走行試験が始まり,市内でも高架橋を走行する車両を実際に目にすることが多くなった。

 

 こうして,2005年(平成17年)8月24日,待望のつくばエクスプレスが開業。この日は守谷駅で開駅式,1番列車発車式が開催されたほか,西口広場で2日間にわたり開業記念イベント「きらめき守谷夢彩都フェスタ」が開催された。これは現在,市民を構成員とする実行委員会主催のイベントへと成長。毎年恒例の駅前イベントとしてすっかり市民に定着し,2010年(平成22年)からは内容や集客力の増強を図るため,守谷市商工まつりとの合同開催形式となっている。

 また,つくばエクスプレス開業を機に,路線バス,コミュニティバスなどの市内バス体系はすべて守谷駅起点に変更され,駅東西自転車駐車場,都市軸道路の下り線の一部も供用を開始し,翌年には上り線の一部も開通した。

 

 一方,つくばエクスプレス整備の当初の目的であったJR常磐線の混雑緩和については,開業年度はラッシュ時混雑率が快速線(松戸~北千住間)・緩行線(亀有~綾瀬間)ともに減少。開業前は200%近かった混雑率は,現在いずれも170%台で推移しており,一定の混雑緩和効果を上げている。

 このほか,都心方面に向けての人の流れの変化として,つくば市から東京方面を結ぶ高速バス利用者の減少,関東鉄道常総線守谷駅利用者の増加が上げられる。

 

 開業から5年目の2009年(平成21年)には,つくばエクスプレスの1日平均乗車人数は270,300人を記録。これは東京駅までの延伸検討のための前提条件27万人を上回る数値であり,目標より1年早い突破となった。

 市では今後,市民の交通利便性を更に促進するため,県及び沿線市町村と連携し,東京駅延伸を目指した活動を継続することとしている。

 

本文中(*)の部分は巻末に用語解説あり