1 八坂神社の歴史

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 八坂神社は両守谷駅から直線距離で東南約700mの旧街道(銚子街道)沿いに位置する。祭神は素戔鳴尊で、本殿に安置された神鏡の表に権現像3、背面には「下総国守谷郷牛頭天王守護所 大同元年丙戌九月廿一日 神主吉信」の銘があり、大同元年(806)の創建といわれる。当地は戦国期には相馬氏が居城を構えており、八坂神社は現在地から南西約1,400mの大字高野字本宿に鎮座していた。

 天正18年(1590)に菅沼(後に土岐)定政が1万石で入部し守谷藩が成立、第2代守谷藩主土岐定義が慶長3年(1598)に町並みを本宿から本町に遷し、その時に社殿を造営した。これについては、北条氏の支配下にあった守谷城が豊臣秀吉軍の侵攻により廃城となり、土岐氏の陣屋が相馬氏の古城跡に設けられ、慶長2年に亡くなった初代藩主土岐定政の菩提寺が古城跡近くの蔵円寺(増円寺)でもあったため、町並みを本宿から古城跡南の本町に移したと推察できる4


 守谷町(旧守谷地区)は城下町としてある程度繁栄し、町の姿を保っていたが、寛永5年(1628)の土岐氏移封後は衰微して周辺の農村同様の状況となった。慶安4年(1651)には守谷町、寛文朱印留には守谷村とあり堀田正俊(後に古河藩主)領であった。寛文7年(1667)には天領、元禄郷帳には守谷町、天保郷帳には守谷村とある。そして、明治初期の各村旧高簿には守谷町とある5。幕末には下総関宿藩領1802.371石で、その他に八幡神社朱印地5石、長竜寺朱印地10石、永泉寺朱印地3.5石、西林寺朱印地20石があった6。「守谷が町なら、田螺[たにし]も魚」と椰揄されたが、かつては城下町であり、江戸時代においては現市域唯一の町場で、宝永3年(1706)には市[いち](物資の交換取引が行なわれた場所。市場)が月に6度あった7。銚子街道沿いの町並みは北から上町、仲町、下町に分かれ、商売を営む家が並んでいる。この中には近江国出身の近江商人もいる。そして、八坂神社は町中央部の仲町に位置する8。神社前の銚子街道は、筑波海道・下妻海道・江戸海道でもあった9


旧守谷町中心市街(明治14年測量「迅速測図」より)

 八坂神社は江戸時代には牛頭天王社と称され、明治初年に現社名となり、同5年には村社となった。「天王様」と通称され、昭和55年迄は毎年旧暦6月11日から15日まで祇園祭が行なわれ、11日を「御出遣[おでやり]」、14日を「宵宮」、15日を「本祭[ほんまつり]」としていた。昭和56年からは新暦7月最終土曜日を本祭とし、その週の火曜日から土曜日までの5日間、祭礼を執行している。その他の行事として1月4日にオビシャ、11月23日には新嘗祭が行なわれている。

 昭和45年刊『茨城県神社誌』に氏子600戸、宮司大手春樹10、禰宜森坂茂、責任役員古田亀次郎・大和田仁・斉藤芳太郎、総代8人とある11。神紋は三つ巴紋と五瓜に唐花紋(五葉木瓜[もっこう]紋)である。後者の紋がキュウリの断面に似ていることから、京都では祇園祭の期間はキュウリを食べないと伝わるが12、当地ではその伝承はなく祇園祭の供物にキュウリを供えている。境内は樹齢400年以上の御神木ケヤキをはじめ、イチョウ・スギ等の老樹に覆われている。現氏子数は約950戸、宮司は平成21年から下村良弘氏が奉職している。