2 社殿

2 ~ 3

 慶長3年(1598)に第2代守谷藩主土岐定義が現在地に社殿を建て、その後に伊丹播磨守が修繕したが、寛文2年(1662)に全焼した。翌年には第4代守谷藩主堀田正俊が再建したが、同5年再び火災にあった。同11年に第5代守谷藩主酒井忠挙が再造営、元禄5年(1692)には関宿藩主牧野備後守が大修繕を行なった13。社殿裏にある同5年の手水石「牛頭天王御宝前」は大修繕記念に奉納されたものと推察できる。また、3年後の同8年には守谷町惣氏子と神主宮本安之丞が灯籠一対を奉納している。その後、文政10年(1827)には本殿と拝殿の屋根替え14、安政4年(1857)には石坂・石垣を整備した15

 大正13年上棟式の南面の本殿(覆屋の中)は銅板葺方2間四方の4坪、幣殿は3坪。入母屋造、平入りの拝殿は銅板葺間口3.5間、奥行2.5間の8.75坪である。一間流造りの本殿は桃山式の面影を残しているとされる16。平成元年には本殿・拝殿が修復され(「オ 墨書・その他資料調査報告 二」)、同9年には社殿向って右側に社務所が併設された(同 五)。