本来、神を招いたり、神の到来を表す依代として揚げられる。八坂神社の祇園祭は「幟祭」と呼ばれるように大幟が19本も揚がる(「ウ 大織調査報告」参照)。一番多いのは上町の5本で、組単位で所蔵している。昔は6本の大幟が建っていたが、土塔に1本譲ったので現在5本となった。土塔には上町からの新宅が多く移っているので譲ったとされる。
次に多いのは坂町4本、そして土塔三町2本、仲町・下町・城内・下新田・新町・栄町の各1本と八坂神社2本の計19本である。土塔三町の2本は、元は上町と新町から譲られた幟である。栄町の幟は仲町(田中屋)から譲られ、かつては常総線守谷駅前広場に建っていたが、現在は明治神宮遥拝所に建つ。また、下新田の幟も仲町(植田屋)から譲られたもので、交通事情や家の事情により昭和40年代以降4回移動した。また下町も2回、城内や土塔三町も移動している。上町の幟2本のように宗教上の理由から現在地へ移動した幟もある。
現存する最古の大幟は現在揚げられていないが、仲町の嘉永2年(1849)の「印 斎祀素戔嗚尊 嘉永二己酉歳六月吉辰 東都龍皐久世邦楽敬書印印 斉藤徳左衛門 平尾丈助 斉藤藤兵衛 相良弥市」である。右上の関防印[かんぼういん]は朱文瓢形印 「巻益」、落款は朱に白文方印「君昌」と朱文方印「龍皐」である。大きさは現在のよりも一回り小さく、縦965cm、横130cmで縦4枚接ぎ。縦右のチチ(耳)25枚、横上のチチ5枚で、右上角のチチは縦横2枚合わせとなっている。幟を奉納した斎藤徳左衛門・平尾丈助・斎藤藤兵衛は、慶応2年(1866)に八坂神社に素戔嗚尊の絵馬を奉納した5名の中の3名で、大変信仰心が篤かった。
現在の大幟は多くが「氏子中」の奉納であるが、古くは有志数人による奉納で、上町の古々幟にも「印 瑞雲輝神徳 大正十五年六月中浣 秋場祐拝題時齢六十有九印印 下村政吉 関熊太郎 岡田由蔵 木村由太郎 各拝奉献 印」と個人名がある。関防印は「鎮座」、落款は朱に白文方印「祐印」と朱文方印「元吉」、商標は朱文長方印「新町山崎製」である。かつては他にも個人名のある幟があり、組の人が協力して幟を揚げたらしい。
古い幟の揮毫は東都の久世龍皐21と水海道村(常総市)の秋場祐22によるものが多い。再調した場合、題字・揮毫者は同じで、古い幟の年紀と再調の年紀が記される。題字には他に秋場祐の「鎮守素戔嗚尊」や揮毫者不詳の「神璽輝神徳」「祇園御祭礼」がある。大きく力強い隷書・篆書・行書等で書かれた字は、見る人に畏敬の念を感じさせる迫力に満ちている。地区内安全や五穀豊穣の願いを込めて揚げられている。
仲町の嘉永2年(1849)を初出として、年紀の古さを調べると少なくとも上町では明治11年に3本、大正4年1本、同15年1本が作られ、坂町では明治16年に1本、同30年に2本が作られている。しかし、揮毫した秋場祐は明治28年に亡くなっているので、上町公園の大正15年の幟は再調であることがわかる。また、文化10年(1813)生まれで69歳の時に揮毫しているので、本来は明治14年の幟と考えられる。
また、仲町の嘉永2年(1849)の幟を揮毫した久世龍皐は、文久3年(1863)に書家の子供がいるので、52年後の大正4年(1915)に上町の幟を揮毫することは不可能である。これも再調であり、他の龍皐の幟同様に明治30年頃と考えられる。幟の年紀は平成等と新しいが、下町と下新田には明治31年、城内には同32年の幟立の彫物がある。また、栄町の揮豪者は久世龍皐となっている。以上から、上町・仲町・坂町・新町には明治10年代に相次いで大幟が7本以上、同30年代旧守谷地区には14本以上が建っていたと推察できる23。しかも仲町にみるように大幟を揚げる伝統は少なくても嘉水2年(1849)から166年以上続いているのである。
大幟の中には新町の柏屋(現山崎クリーニング店)や愛宕の小川屋(廃業)と明らかに地元の染物屋が作成した幟もある。旧守谷地区には少なくても染物屋が2軒あったことがわかる。
近年、幟が毎年のように破れることが多い。少し位なら地元の呉服店や際物屋で修理するが、直しようがない場合は仙台市・浅草・長野県等の業者から25万円から30万円程で購入している。TXの高架線路や高層ビルの建設によるビル風、あるいは帆布が弱くなったためと考えられている。ビニールなら15万円位でできるが、とても弱いという。平成25年に上町では幟が破れたので25万円余で新調し、1戸2万円余を負担した。また、新町では平成2年の幟竿の保管が悪かったため白アリに食われ、平成18年に竿を新調、石造の幟立を建てた。