○仲下町(仲町・下町・城内・下新田)

11 ~ 12

・山車

 祇園祭の5台の山車の中で一番古く、仲町の材木商植田屋(野口常蔵氏)がケヤキで作った。昭和50年頃、同じ植田屋の実氏が山車を修繕した。その時、回転心棒近くの横木に「明治二十七年」と墨書があったという。

 舞台周囲の見事な彫刻12面は後藤彫の流れを汲む人が彫ったとされ、鶴・雉・雀等15羽と松竹梅が精巧に彫られている。土台部と舞台部の上下に分かれ、中央部で舞台の下の心棒が土台の凹に合わさっているので、昔から自由自在に左右に回転した。仲町の駐車場で楽しみ工夫しながら組み立てる。

 囃子舞台の大きさは幅7尺3寸5分(約223cm)×奥行8尺5寸7分(約260cm)で、前方に一段低くやや狭くなった幅6尺(約182cm)×奥行3尺1寸7分(約96cm)の踊り舞台が付く。囃子舞台の高さは地上から4尺1寸8分(約127cm)、踊り舞台の高さは3尺2寸5分(約99cm)、山車の総高は4.5m位で5台の中で1番背が高い。ケヤキ3枚重ねの直径約80cmのタイヤは昔は砂利道であったため、また長年の使用で削られ、あるいは凸凹になるので、これまでに3回位削った。

 昭和35年頃は舞台の8本の柱は全部竹で、屋根はヨシズであった。踊り舞台には屋根がなかった。戦前は大八車26を改良した舞台であった。また、頂上部には源為朝や源頼政の人形が載っていた27。その時は現在より1m以上高かった。しかし、砂利道が舗装され嵩[かさ]上げされたためもあって電線に引っかかるようになり、竿で上げながら巡行した。その後、上の飾りが人形から現在の低い万灯に変わったようである。万灯の上げ下ろしに今はクレーン車を使う。

 祭のため、1年ぶりに神輿を山王社脇の格納庫から出すと、金メッキに緑青が吹き出していて大変汚いので、米糠雑巾で拭き取っている。山車の上部正面には大きく「仲下若連」、上部両側面には「八坂祇園祭」とある。舞台の前と左右の三方には赤い欄干があり、上部に紅白幕が下がる。左右両脇と奥に簾[すだれ]を垂らす。


 

・囃子と踊り

 7月に入ってから下町公民館で毎日午後7時から8時半まで子供会、それ以降9時半までは青年会が馬鹿囃子と馬鹿踊りの練習をしている。昔から伝わる囃子の伝統を守り、かけ声は「ソーレ、(ウン)、ソレソレ」と全く変かっていない。佐原囃子が元だと伝わる。かつて自営業で三浦ミツゾウさんというヒョットコ踊りの名人がいた。大変厳格で、伝統を守らない若者には非常に厳しかった。青年会の白い祭半纏の両衿には「松仁28会」、背中には黒で「松仁仲下」とある。

 昭和32年頃、山車を曳くのはどの地区も男子のみであった。35年前位(昭和55年頃)から女子も曳けるようになったが一部の山車だけだった。囃子も女人禁制で、20年位前に上町で初めて出た。仲下町は伝統を重んじる町なので、15、6年前になって漸く女子も許可するようになった。今は女子なくしては子供会も青年会の囃子も成立しないくらい女子が活躍している。