歴史

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 延享元年(1744)6月の「天王祭礼出銭取立并諸入用払帳」31があるので、少なくとも祇園祭は270年以上の歴史を持つといえる。文化9年(1812)の文書に牛頭天王宮御祭礼40年余中絶、文化2年に新規神輿造建とあり32、明和元年(1764)頃から40年間余り祭が中絶していたようである。天明8年(1788)には神社の境内地が明和7年(1770)の半分となっており、本殿と拝殿がやや大きくなっていることから33、再建か何らかの理由で祭礼が中絶されていたと考えられる。

 文政10年(1827)閏6月14日には、6月の閏月のため陰祭をした34。陰祭とは、一般的に例祭(本祭)を隔年に行なう場合、例祭のない年に行なう小祭を指す。6月に本祭を実施、翌月の閏6月には正式の儀式を省略した質素・簡略な祭礼を、若者だけで太鼓を叩き行なったようである。それ以降は閏6月がないので、最後の陰祭であった。因みに閏6月があるのは、明和7年(1770)、寛政元年(1789)、文化5年(1808)等であるが、前者2年は祭が中断していた時期なので陰祭はなかったと思われる。後者の文化5年については不明である。

 また、文政13年(1830)閏3月には、疫病が流行ったので仲町で天王神輿が担がれ町を廻った35。このように疫病が流行った時には、近隣地区では大杉神輿が担がれる場合が多い。旧守谷地区では現在も大杉様(稲敷市阿波の大杉神社)に代参し御札を受けて来て、疫病や災厄が集落に入って来ないように隣町の境等に辻札を立てている。祭礼以外において天王神輿が担がれた事実が確認できた。