神輿

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 文化2年(1805)、40年ぶりに復活した祭礼は、文政6年(1823)の文書によれば、今年からは11日に御仮家へ神輿を出し、15日に5町内残らず神輿を回すこととなった。理由は近年の凶作続きによる氏子安全のためである。より広い地域でより多く神輿を担ぎ、何とか神の力で凶作という災厄を追い払おうとしたのである。神輿かきは下2町6人、上3町6人の計12名で、他の人は神輿を担いではいけないこととなっている38

 神輿は文化2年(1805)、天保12年(1841)、元治元年(1864)に新規に造られ、現在の神輿は井野村(取手市)飯田平次右衛門が作った元治元年の神輿である39。江戸大門通角の万屋利兵衛が天保12年に作った神輿は、下台が3尺、家根張が3尺5寸であったが40、元治元年は3尺8寸、4尺5寸と単純に計算しても1.3倍大きくなっている。その重量はそれ以上だと考えられる。また、天保12年には、神輿の他に四神・鉾・籏を金32両で揃えたが、今は残念ながら全て残っていない。ただ、その神輿周囲の古鏡24枚と鈴8個は、現神輿に再利用されている。鏡は直径82mm、厚さ4mmで、各背面には松竹梅に鶴亀・波に矢車と千鳥・丸に橘紋などが浮彫され、藤原金益・藤原光政・藤原光永など製作者名が確認できる。

 元治元年に神輿を金75両、同時に飾獅子を金12両で作製したが、両方共現存である。この時には古い神輿の鏡を使ったので研賃金1分・獅子木綿染賃金2分等が掛り、計金95両2分余であった41。天保12年の23年後に、3倍のお金を懸けて神輿一式を揃えている。勿論、物価上昇もあるが、個人の分担金や寄進を基に、牛頭天王再建勧化金の貸付による利金も大きく寄与している。なお、この神輿は明治25年に日本橋区(中央区)の森利平(利兵衛)、昭和8年に取手町の仏師福田運章、昭和50年に浅草の宮本卯之助商店により修復されている(「オ 墨書・その他資料調査報告 一・七」)。150年前の神輿が祇園祭の主として、現役で活躍していることは大変尊い。

 文化2年の神輿の大きさは不明であるが、天保12年より小さかったと思われる。江戸時代の若者は力持ちであったので、文政6年には文化2年の神輿を12人で担げたのであろう。また、現在の神輿担ぎ手の体力は昔の若者に比べ弱く、戦後までは22名42であったのが、昭和40年代に現在の24名となった。そして、神輿の担ぎ手は一家の主人、または後継者と決まっていたが、現在は資格が緩くなった。ただし、入れ墨やタトゥーの入った人は担げない。勿論、渡御中は禁酒となっている。

 神輿を担ぐ人は心身の清い神に仕える人で、最初から最後まで責任をもってその任に当たるとの伝統が少なくても約200年間守られている。歴代の宮司や氏子たちが、祇園祭における神輿の意義を正しく認識し、代々受け継がれているのである。