江戸時代は百姓代と若者頭(今の青年会代表)が祭の中心となっていた52。天保12年(1841)には、若者が天王祭では町役人の指図を受け我侭しないと誓約53、慶応元年(1865)には若者の口論が原因で祭が日延べとなった54。また、文政10年閏6月の陰祭や同13年閏3月の疫病流行につき神輿を担いだ時にも、酒が理由で喧嘩口論が起きている。一般的に、戦後まで大杉様やその他の祭でも若者の酒による口論は尽きなかった。現在、神輿担ぎ手は本祭の間は一切禁酒、青年会は自粛を厳守している。そして、日常的に他の青年会との連携を保っているので喧嘩口論は一切なく、「本神輿が主」との立場を弁え、山車の巡行は安全に留意し規律正しく統制が取れている。