昭和50年発行『広報もりや』第129号に次のような逸話が載る55。明治30年前後のある年、守谷町に赤痢が流行し、町では急遽、待避病院を城山に建設した。そして赤痢騒ぎのため八坂の祇園祭を取りやめることにした。ところが、下町の料理屋坂本氏は「そういう時こそ祭を盛大に行ない、病魔退散を祈るべきだ」と主張し、遂に愛妻を東京吉原の遊郭に身売りし費用を作った。これを知った町の人々はすぐにその愛妻を身請けし、その年の祭を盛大に執行したという。その料理屋は引き継がれ大正の中頃まで営んでいたが、その後、精米所に転業し、その跡を人に譲り、坂本氏の子孫は守谷を離れていったと伝わる。
明治30年頃は、神輿が色鮮やかに修繕され、仲下町の山車が作られ、個人や有志により大幟や幟立の見事な彫物が奉納された時期である。旧守谷地区の人々にとって、いつの世も祇園祭は全エネルギーを注ぎ、生き様を示す場であった。今年もその生き様を十二分に窺うことができた。