[注記]

30 ~ 31

1 『野口如月著『北相馬郡志』復刻版(大正7年)』(崙書房 昭和46年)112・113頁。

2 守谷市公式サイト-Moriya Cityより。市指定有形文化財である。

3 卸そう御長四寸八分(翻刻No.3、斎藤一彦家文言Q12-11。以下、斎藤家Q12-11)。

4 明和7年(1770)の文言(翻刻No.3、斎藤家Q12-11)には、「当所御城破却ニ付、天王宮・当町とも引越」とある。

5 管見の限り、翻刻した斎藤家文書には守谷町とある。

6 八坂神社に朱印地はなく、別当も不明である。ただし文化9年(1812)の祭入用に「別当礼」とある。明和7年(1770)の境内は南北44間×東西17間であるが、天明8年(1788)には南北23間×東西11間と半分になっている。これと文化2年以前の40年間余、祇園祭が中断していたこととの関係は不詳。八坂神社東側は観音寺跡(廃寺)とされる。

7 翻刻No.1、斎藤家C12-6。当時は酒屋が2軒あった。また、翻刻No.2、斎藤家A20-22には、安政2年には寺が9軒とある。

8 常総線の守谷駅が近くに開設される話もあった。

9 翻刻No.1、斎藤家C12-6。延享元年(1744)の祭入用には、江戸買物・深川へ道具借用・我孫子・真瀬等とあり(翻刻No.9、斎藤藤家Q9-1)、街道沿いに位置するため他地域との交流も盛んであった。

10 取手市白山琴平神社の宮司。平成21年まで八坂神社宮司を兼務。

11 茨城県神社庁発行、1800頁。明治5年(1872)3月の氏子数は191戸、守谷町には他に八幡太神社1戸・愛宕神社46戸・天神社14戸・鹿島太神社62戸があった(翻刻No.8、斎藤家Q166)。

12 平将門信仰の強い地域にこのような伝承が伝わっている。古城跡には平将門伝承があるが、八坂神社との関係は不詳である。

13 宮司の宮本安之丞から斎藤徳左衛門への寄進金受取手形が残る(翻刻No.22、斎藤家Q9-19)。

14 翻刻No.5、斎藤家Q9-4。

15 翻刻No.6、斎藤家Q9-13。翻刻No.7、斎藤家Q9ー14。

16 斎藤隆三著『史郷守谷(復刻版)』(守谷町 1990)23頁。

17 国立博物館絵画室長菊地貞夫先生の鑑定による「八坂神社絵馬に関する調査報告」。斎藤徳左エ門・同藤兵衛・平尾丈助の名は、現存最古の嘉永2年(1849)の大幟でも確認できる。

18 北村勝史は外幟のサイズを縦1100×横90cmを大幟、700~500×60cmを中(標準)、300~100×30cmを小としている(「人々の祈りの心をこめた民衆の絵画 江戸期の絵幟」『月刊 染職人』No.188(染職と生活社刊 1996)31頁。

19 つくばエクスプレスの駅前開発によりなくなった町名であるが、開発終了後に戻ってきた人や離れて暮らす人々、そして新しく住民となった人々が、祇園祭には海老原町を組織し奉仕している。総代はいないので大世話人がその役を果たす。

20 土塔三町は土塔本町・新山・土塔中央からなり、それぞれに大世話人がいて計3名。上町・坂町・下新田は各2名。

21 生没年不詳。江戸小日向大日坂(文京区)に住む書家。名は邦、龍温、数馬。宇は君昌、号は龍皐(『文京区史』2(文京区役所 1981)792頁。『近世人名録集成』2(勉誠社 1976)101・145・200・322頁)。『近世人名録集成』2に収録の『文久文雅人名録』(1863)に、久世龍皐と共に小日向大日坂の書家久世龍壑が載る。名は長良・朔之助、字は子邦、龍皐男とあるので龍皐の子である。久世龍皐については同じ内容で『江戸文人芸園一覧』(1850)・『安政文雅人名録』(1860)・『当時現在広益諸家人名録」(1861)にも載る。大日坂に関宿藩主久世氏の下屋敷があったので、関連の人物と思われる。

22 1813・1・28~1895・5・14。水海道村(常総市)出身の名主・儒者。名は祐、字は元吉、号は桂園、別号は天香、通称謙吉。土浦藩の儒者大野竹軒に学び、後に江戸に出て佐藤一斎、大窪詩仏に師事。秋場家は旗本日下家の代官を務めた。文久3年、旗本日下氏に従い上洛、尊王の志士と交わる。明治維新後は戸長を務める(『幕末維新人名事典』(新人物往来社 1994)21頁。『日本人名大事典』1(平凡社 1979)35頁)。

23 八坂神社の幟は平成26年新調で、それ以前はなかった。

24 仲町田中家の幟等は栄町に譲られたが、平成8年に幟立が石造になったため確認できない。しかし、雲形は以前からの木造一対を使用している。

25 高梨輝憲「郷土の歴史 守谷八坂のまつり」『広報もりや』第129号(昭和50年7月25日)。明治期か大正期の祇園祭の写真(田中屋御提供)に神社脇の仲町と上町をまたぐ「宿またぎ提灯」が確認できる。

26 8人分の仕事の代りをするという荷物運搬用の大きな二輪車で、2、3人で引く。

27 斎藤隆三著『自叙伝』(私家版 昭和36年)9頁。為朝は平安末期の豪勇な武将で、九州に勢力を張り鎮西八郎と称す。頼政は平安末期の武将で、保元・平治の乱に功をたて、宮中で鵺[ぬえ]を退治した話は有名である。

28 守谷の木である「松」に、個人の名「仁」を採用している。

29 幟竿建ての時、2年続けて怪我人がでたので、昨年からクレーン車で幟竿を建てている。

30 今年は御朱印を求めて八坂神社へ来る外国人も増えている。

31 翻刻NO.9、斎藤家Q9-1。

32 翻刻No.10、斎藤家Q9-45。

33 前者は翻刻No.4、斎藤家Q12-12。後者は翻刻No.3、斎藤家Q12-11。

34 翻刻No.13、斎藤家B18-71。

35 翻刻No.14、斎藤家B4-102。

36 翻刻No.10、斎藤家Q9-45。

37 翻刻No.10、斎藤家Q9-45。翻刻No.17、斎藤家Q9-48。

38 翻刻No.12、斎藤家Q9-46。

39 翻刻No.20、斎藤家Q9-16。

40 翻刻No.19、斎藤家Q9-15。

41 翻刻No.21、斎藤家Q447。

42 高梨輝憲「郷土の歴史 守谷八坂のまつり」『広報もりや』第129号(昭和57年7月25日発行)。

43 10か所の幟立の中に屋根2、一対の彫物のもう1点を追加、計13点。

44 平成24年第3回定例委員会(我孫子市教育委員会)における「我孫子市指定文化財の指定について」の調書(河東義之氏作成)。

45 『我孫子市史資料 民俗・文化財篇』(我孫子市教育委員会 1990)627頁。我孫子市では江戸時代中期(明和年間以前)の建立とされる拝殿と明治30年の本殿が、有形文化財(建物)に指定された。

46 『我孫子市史資料 民俗・文化財篇』(我孫子市教育委員会 1990)589頁。

47 翻刻No.11、斎藤家Q9-3。

48 翻刻No.23、斎藤家Q441。

49 翻刻No.24、斎藤家Q914。

50 翻刻No.10、斎藤家Q9-45。

51 翻刻No.15、斎藤家Q9-47。

52 翻刻No.10、斎藤家Q9-45。翻刻No.12、斉藤家Q9-46。

53 翻刻No.16、八坂神社所蔵の写文書。

54 翻刻No.18、斎藤家Q4-107。

55 高梨輝憲「郷士の歴史 守谷八坂のまつり」『広報もりや』第129号(昭和57年7月25日発行)。