1 守谷町の家数・人口の変化
宝永3年(1706) | 享保11年(1726) | 安政2年(1855) | 明治4年(1871) | |
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家数 | 277 | 247 | 219 | 240 |
人口 | 1412 | 1122 | 1058 | 1208 |
※男女の合計が人口とはならない。
2 宝永3年(1706)の守谷町=本町・新町・昼坂町・横町・愛宕町
3 八坂神社
○境内の広さ・宝永3年(1706)=竪44間×横16間
・明和7年(1770)=南北44間×東西17間
・天明8年(1788)=南北23間×東西11間(減少)
・明治4年(1871)=南北23間×東西11間
○造立=牛頭天王、大同元年丙戌9月21日。御像、長さ4寸8分。唐金にて裏書にこの年号。先年、高野村境に記立。当所御城破却につき、天工宮・当町とも引越(明和7年文書)。
4 祇園祭
○延享4年の祭礼入用の中に、筑波太夫・かとり太夫、深川から道具借用。
○文化9年文書 牛頭天王祭礼40年余中絶(明和元年=1764年頃からか)、文化2年新規神輿造建。これまで年々御社の前に御仮家を建てていた。5町内相談の上御仮家の場所は上3町当番時は上宿中御幟、下2町当番時は高札場へ建てることに決める。百姓代・若者頭が中心となっている。
○文化9年・安政2年 下当番=下町・中町
上当番=上町・昼坂町・新町
○文化9年の入用に、「別当礼」とある。村割はその家の暮らしを見て1軒につき銭24文か12文。
○文政6年 例年14日に神輿出し。今年から11日に御仮家へ出し、15日5町内残らず廻し。近年凶作打ち続きにつき、氏子安全のため。神輿かきは下2町6人、上3町6人の計12名。その他の人は絶対に神輿を担いではいけない。若者頭・百姓代の一札。
○天保9年 神輿は下当番の時は下より、上当番の時は上より回す。屋台(山車)は新田西林寺(天台宗)下門前より上、中、下、新町、昼坂廻し。
○安政2年 上宿・新町・昼坂3町の組合であったが、昨年新町・昼坂は組抜けた。沼崎隠居様(永泉寺=浄土真宗大谷派)・上町雲天寺様(浄土宗)・河内様(八坂神社宮司)・中下宿・愛宕・奥山一同にて新町・昼坂へ掛合の結果、3町にての執行を納得。
○慶応元年 若者口論により、祭礼日延べ。詫び人は雲天寺へ入院。
5 神輿の大きさ・金額・製作者
下台 | 家根張 | 金額 | 製作者 | |
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天保12年 (1841) |
3尺 | 3尺5寸 | 金32両(四神・鉾・旗を含む) | 江戸大門通角 万屋利兵衛 |
元治元年 (1864) |
3尺8寸 | 4尺5寸 | 金75両 | 井野村 平次右衛門 |
○元治元年 2尺5寸の飾獅子一対を金12両で製作。井野村大工平次右衛門・仏師亀吉。
6 牛頭天王再建勧化金貸付
○嘉永元年(1848)11月~明治14年
借用証文によれば、6ケ年賦、年々1割2分の利銀を加え、毎年平均額を11月5日までに納める。
借用者には守谷町の他に、大柏村・辰新田・野木崎・筒戸・平沼・市之代・立沢等の人もいた。