②鬼怒川開削に伴う地形

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 政治的に経済的に安定した江戸時代には、大規模な土木工事が全国規模で行われ、その一つが鬼怒川の河道の付け替え、すなわち人為的な河川争奪である。現代のように機械力によらずに人力による大工事は、長年月を費やして寛永10(1633)年以後に完成したとされる(高梨、1985)。北相馬台地の幅の狭い約1.5kmの区間が20m以上掘削され(図14)、さらに利根川低地などの低地部分も数m以上掘り下げられた。その結果、台地下に隠されていた浅海性の化石床が小峡谷状の河岸に初めて露出し(写真4)、谷底は海面より2.5mも低下することになった。


図14 鬼怒川の横断形と台地上の高まり。横断線の通過位置は図4参照。白抜きの三角形は掘削土砂を示す。


写真4 増水した鬼怒川の右岸側攻撃斜面に露出する白っぽい化石床。
その上方の赤褐色の地層は貝化石のカスト(印象)帯。撮影地点は図4参照。

 北相馬台地などを掘り下げられ通水した鬼怒川は、図4に示したように直線でなくS字型に大きく屈曲する。中坪以北における鬼怒川の開削工事に際しては、既に高梨(1985)も指摘しているとおり、掘削深度をより小さくしてその効率化を図るために図4に示した水(谷津)田に当たる谷底平野や浸食谷が利用された。また、中坪以南では台地を深くまで掘り下げざるを得ないために河道を直線化したことが考えられる。そして、滑走斜面の左岸側の台地上で約5mも高い河畔砂丘状の高まりは、当時の工事の大きさを今に伝えている。