環境保全運動における水田の役割

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伊藤一幸

 水田は日本の農業を支えてきた基盤であった。湿地の開田は江戸時代以降急激に進展し、戦後には300万ヘクタールを越えた。ここは水稲の生産の場であると同時に、アジアモンスーン気候下におけるウェットランドである。ジュンサイやオモダカからミズスマシ、ゲンゴロウ、フナ、トノサマガエル、オオヒシクイに至るまで、水生動・植物の住みかでもある。

 大部分の水田は基盤整備がなされ、方形で区画が広くなった。暗渠排水を施工したことにより乾田化し、水を溜めたいときだけ水が溜まるようになった。用水路は3面コンクリートで直線となった。これらはトラクター、田植機、コンバインなどの農業機械を使った省力化技術であり、農薬と化学肥料を投入することにより米の生産は飛躍的に増進した。しかし、こうした農業の近代化はトキを始め多くの湿地生物の犠牲を強いてきた。

 ところが、近代的な稲作に取り残されたところがある。思うように四角の田んぼにできなかった山間や、台地からの湧き水が出る狭い谷間の湿田である。谷津田、谷戸田と呼ばれている水田である。現在、そのほとんどが減反で、休耕田や放棄田となっている。

 また、稲を作ったことがない人が増えてきている。それは機械化が進展して家の手伝いがなくなり、学校田がなくなったからだ。お米は余っているので多収が重要ではない。現在私は、都市住民となった人達の自然と接触する場として、近郊の谷津田の重要性が極めて高いと考えている。今なら地主である農家の人がこうしたところを活用したいボランティアを指導できる。畔の作り方、鎌の使い方などちょっとした稲作技術が伝承されていない。わらの利用などなおさらだ。

 まして、こうした産業に役立たない谷津田には最小限の人手しかかけなかったことから、タコノアシ、ミズニラ、スブタなどのような絶滅危惧種が見られることがある。もっとも草刈りなどの管理をしている農家の人達は、それらが重要な植物であるという認識は持っていないが、稲作りなどで自然の恵を得ながら動植物の保全も考えられる場は、水田のような二次的湿地でしかないであろう。というのは、毎年定期的に耕起や草刈りをしているところにだけ生える植物もあるからである。

 そして何よりも水田としての利用は長い歴史の中で培われてきた湿地の最も省力的な管理形態である。公園として管理するより遙かに安く維持できる。こうしたことを稲作の担い手も都市住民も地方自治体の担当者も理解していないのではなかろうか。

 絶滅危惧種の生育の一例としてタコノアシを見てみよう。これは関東以西の平地で浅く湛水する湿地を好む植物である。1属1種の変わり者でベンケイソウ科に入れられたこともある。変わった名前なので一度聞けば誰でもすぐに覚えるだろう。花びらもなく数十cmの草丈の何の変哲もない多年草である。枯れた前の年の花序を折って、ひっくり返してみると花序が外側にカーブし吸盤のついた蛸の足に見えることから付いた名前であろう。


 茎の基部は地中にあり数本の地下茎(走出枝)を出す。4~5月に崩芽し、花が咲くまでは周辺に生えているセイタカアワダチソウときわめてよく似る。枝分かれせずにまっすぐ立ち、葉は6~10cm、幅1cm内外で、セイタカアワダチソウよりやや淡く、ざらつきがない以外はそっくりである。6月上旬にこうした湿地を歩くと、せっかくの植物を踏み荒らしてしまうことさえある。茎はセイタカアワダチソウよりだいだい色ぽく、葉はやや粗で細かな鋸歯がある。葉柄はほとんどない。タコノアシが生育している環境は生態的にきわめて微妙で、いつも水がついている条件ではヨシ、ガマ、マコモなどの抽水性の群落となる。少し乾いて丘となる土壌水分条件ではセイタカアワダチソウの純群落となる。両者の中間で、土が軟らかくひたひた水の条件にタコノアシが生えている。これらの大型の植物は、いずれも地下茎により適地(好適水分域)に移動する。移動の速度は、休耕田のヨシの調査では1シーズンで10m以上になることもある。セイタカアワダチソウは種子繁殖も多い。タコノアシもこれらに負けないように移動して繁殖しなければならない。小柄で繁殖力が弱く、種子発生がまれなタコノアシは不利である。戦後、セイタカアワダチソウが侵入してきて、住みにくくなった植物の一つであろう。ヨシ、ガマ、セイタカアワダチソウは、いずれも草丈が2m以上となる。精々80cm程度のタコノアシでは地上部の競争でも勝てない。従ってタコノアシの群落を維持するには、大型の植物の侵入を抑えるように定期的な撹乱、たとえば年に一度の耕耘、2、3回の草刈り、明渠掘りなどが必要となると思われる。

 なお、同様に危惧種であるミズニラは、タコノアシよりもやや乾いた環境で生育する。従ってヨシやガマよりもセイタカアワダチソウが競争相手となる。加えて草丈はタコノアシよりも極めて低いので、他の多くの植物にも負けてしまう。谷津の休耕田に一時は広がったミズニラの大群落が、他の植物の増殖により激減した例を確認している。ミズニラの群落を維持するためには、タコノアシ以上の定期的な管理が必要であろう。

(農業環境技術研究所 植生生態研究室長)