西部山地の狭い先行谷を流下した犀川は、犀口でにわかに長野盆地に放流される。盆地西縁をなす茶臼(ちゃうす)山の崖線と犀川の流路が直交するので、犀口を境にした流域の地形の変化は顕著である。現在の犀川は犀口から東方に直線状に流下し、盆地の東縁近くで千曲川と合流する。犀口の標高は362m、合流点の標高は338mで、標高差は24mあり、この間の流路の長さは10.5kmである。これに対して、千曲川は盆地入り口の粟佐(あわさ)橋(更埴市)の標高が355mで、合流点までの17.5kmの間に17mの下りとなっている。上記区間の河床勾配を比較すると、千曲川の1.0/1,000にたいして、犀川は2.6/1,000で、犀川は千曲川に比べてはるかに急勾配(こうばい)である。この両河川の河相の相違は明瞭で、犀川は網状に広がり流れが速く、堆積がさかんで礫も粗い。
現在の河床にも見られる犀川の活発な堆積作用は、長野盆地南部に大規模な扇状地を形成した。洪水があると狭い河谷部から盆地に出たところでいっきょに流れが広がり、水深を減ずるとともに運搬力が急激に減じて砂礫を堆積する。現在は人工的に流路が定まっているが、犀川は長年のあいだの洪水のたびに犀口を扇の要として左右に流路を変えては堆積を繰りかえし、半円錐形の扇状地を築きあげた。扇状地の勾配は4/1,000程度と非常に緩やかな傾斜であるため視覚的には傾斜が感じられないが、地形図で見ると等高線が犀口を中心として同心円状に走っている。扇状地の右翼は西部山麓に限られ、左翼は裾花川扇状地の張り出しによって押さえられている。犀川と千曲川にはさまれた右翼側の扇状地(右扇)は、川中島平と呼ばれている。
扇状地の表面は全体に平坦であるが、子細に観察すると微小な起伏が分布する。そして、それらの起伏は扇状地の傾斜方向に放射状に配列する(図2-8)。微低地は主に扇状地上のかつての河道の跡である。微高地は主にかつての中州や洪水のさいに河道沿いの堆積によってできた自然堤防の跡である。地表を構成する砂礫は、微高地では礫が多いが、微低地ではよりこまかくなっている。しかし流路は固定的なものでなく、洪水のたびに変わったので、土層断面は粗い層とこまかい層に何層も変化しているのがふつうである。治水事業により現在のように流路が固定化されたのは17世紀はじめ(慶長年間)とされるが、それ以後も犀川の洪水の記録はいくつがあり、なかでも1847年(弘化4)の善光寺地震の影響で発生した大洪水では、川中島平全域におよぶ水害をこうむっている。
扇状地上の土地利用はこうした微地形に敏感に対応していて、礫の多い微高地は畑地・果樹園に、細粒物に富む微低地は水田に利用されている。集落は主に微高地を中心に立地し、丹波島、青木島、真島などの地名がかつての中州状の地形を今に伝えている。以上のことから、旧北国街道や新しい国道沿いを別にすれば、土地利用や集落の分布形態も犀口を中心に放射状に配列していることに気づくであろう。
川中島平の本格的な水田開発は江戸時代以後のもので、犀川の水を利用する灌漑(かんがい)用水路の築造により推進された。犀口付近で犀川をせき止めて取水し、扇状地上に水を揚げて導水した。灌漑用水路は、上堰(かみせぎ)、中堰、下堰、鯨沢堰、小山堰の五系統で、これらは扇状地上に放射状に分布する微地形を巧みに利用したものである。すなわち、幹線水路は微高地上を通るように築き、それらから分水して微低地にある水田に引水するようになっている。