千曲川低地

33 ~ 34

長野盆地を縦断して流れる千曲川は沿岸に氾濫原(はんらんげん)を展開し、盆地内で最も低平な土地を形成している。上流の粟佐(あわさ)橋から下流の立ヶ花(たてがばな)(中野市)まで、盆地内の流路長は約30kmあり、その間の高度差は30mにすぎない。しかし、低平そのものに見える千曲川とその沿岸の地形も地域的にかなりの変化がある。

 犀(さい)川合流前の千曲川は犀川扇状地に押されて盆地の東縁をゆるく蛇行している。この区間の河床勾配は1/1,000である。犀川合流後は川幅が4~5倍に広がる。それまでの蛇行状態から一変して網状の流れとなり、いたるところに砂礫堆を形成している。河床の砂礫も粗大になり、さらに河床勾配も合流点から屋島橋までは1.3/1,000と一時的に大きくなる。このような河道の地形や堆積物の変化は、砂礫の運搬量が多く、かつ急勾配で流入する犀川の影響が大きいことをあらわすものである。犀川合流点より下流では流路は東部山麓から離れ、盆地中央に氾濫原をもつようになる。しかし、氾濫原の広さは東西からの扇状地の進出によって狭められている。河床勾配は村山橋付近で1/1,000の緩勾配に戻り、下流でさらに緩やかになる。


写真2-25 千曲川と妙徳山(村山橋付近)

 低平な氾濫原地域では、比高数10cm~1m程度の微小な起伏が土地利用上重要な意味をもつ。氾濫原の微地形は現在の流路を除いて、旧河道や後背湿地などの微低地と、自然堤防などの微高地とに分類される。水はけのよい微高地は畑地や果樹園に利用され、集落が立地し、微低地は主に水田に利用されている。こうした微地形は、現在の流路に沿って配列している。


図2-10 氾濫原の微地形(模式図)

 千曲川氾濫原の北部では、微地形の配列は比較的単純である。現河道をはさんで両側には幅広い自然堤防があり、自然堤防の外側には後背湿地が広がっている。千曲川の人工堤防は自然堤防上に設けられている。左岸の長沼付近ではこの配列が典型的で、国道18号線は自然堤防と後背湿地の地形変換線を走り、東側のリンゴ園地帯と西側の水田地帯をきれいに分けている。長沼の地名は南北に伸びる後背湿地に由来する。支流の浅川は、氾濫原に流下した後はこの低湿地を流路に選び、延々と天井川を築いて北流している。

 犀川合流点付近より南では、微地形の配列はもっと複雑である。自然堤防状の高まりは千曲川現河道の両側にほとんど連続して分布している。しかし、左岸側は主に犀川扇状地の扇端の張り出しであって、後背湿地らしい地形は塩崎の西の篠ノ井線沿いに見られる程度である。右岸側では、氾濫原は山麓線あるいは扇状地や沖積錐と現河道との間の狭い範囲に限られている。牧島・寺尾・清野などの湾入部では微高地と微低地の数列の並列状態が見られる。とくに、現河道より大きく蛇行して湾入部に曲がりこんでいる一連の微低地帯の存在が特徴的である。これは主に千曲川の旧河道地形である。牧島では集落が自然堤防上に立地し、旧河道がこれを半円形に取りまいている。金井山の池は河跡湖である。清野から松代にかけては、宮村・大村・越を通り松代市街地西部にいたる旧河道地形が顕著である。海津城は千曲川に臨む平城(ひらじろ)であったが、現在の神田川沿いにつづく微低地帯が往時の河道を示している。現河道は1742年(寛保2)の洪水後、松代藩の事業で瀬替えされたものである。