善光寺平の西縁に、純白の崖(がけ)をつくる裾花凝灰岩層(写真2-27)については、山崎(1896)が裾花凝灰岩と命名して以来100年間、「凝灰岩」ととらえる立場から多数の研究がおこなわれてきた。凝灰岩とは、発泡・爆砕した火山灰が陸上や水底に堆積(たいせき)・固化した岩石で、噴出源は特定していない。しかし、最近この層の下半部で、特有の水冷(すいれい)割れ目のある岩片や、それらが粉砕された緻密(ちみつ)・破片状の水冷破砕(はさい)岩が各地で確認され、さらに多数の岩脈が発見されて、現地性の火山噴出物であることが確実になってきた。つまりこの層の少なくとも下半部は「凝灰岩」ではなく、水冷破砕岩とすべきことが明らかになりつつある。
この層では、茶臼(ちゃうす)山(1944~64)・地附(じづき)山で地すべりが発生(1985年7月25日、26人死亡)しており、応用地質学的にも注目される存在である。
層位は、海成の浅川泥岩層、論地泥岩層のあいだに整合ではさまれる。
岩相は下部(厚さ1,100m)と上部(700m)に二分(Akahane,1980)されている。下部は溶岩と水冷破砕岩・火砕岩など、上部は火砕岩相が卓越する。下部の岩質は黒雲母(うんも)デイサイト-流紋(りゅうもん)岩質、上部は角閃(かくせん)石黒雲母流紋岩質(表2-3)である。
下部:模式地は小市(こいち)から保玉(ほたま)にかけての犀(さい)川左岸(Akahane,1980)で、茶臼山から小市にかけて広く分布している。岩相は溶岩・水冷破砕岩・(供給)岩脈などからなり、海底土石流堆積物・礫(れき)岩などをともなう(図2-11)。
溶岩はシート状で、しばしば球顆(きゅうか)(写真2-28;ときに人頭大に達し、仏頭(ぶっとう)石といわれている)に富み、パーライトやピッチストーンをともなう。シート状溶岩には水冷割れ目(写真2-29)の発達する例が多い。
小市や秋古(あきご)東方の林の中では、供給岩脈(写真2-30)や比高十数mの、複数の溶岩ドーム・火道岩体が見られる。
岩脈は犀沢川中流部から小市までつづく重複岩脈を最大として、中尾山などで多数見られる(図2-12)。
中尾山西方の沢の中流部では、火山豆石を産し、爆発的噴火の噴煙が海面上に上昇したことがわかる。そのほかでは、海底に流出した溶岩流が基底の軟弱な泥を吸いあげたパイプ構造や、泥と交じったペペライトなども各所で見られる。両郡橋下には、円礫に富む海底土石流(どせきりゅう)堆積物の好露頭がある。
上部:模式地は旭山北から裾花川に沿って善光寺温泉にいたる地域(Akahane,1980)で、分布は旭山・富士の塔山・大峰山から三登(みと)山にいたる北部で広い。下部に比べると火砕岩質であるが、旭山は大型・複数の溶岩ドーム(宮本,1996)であるらしい。また浅川の真光寺西方では、降下堆積物の溶結相と考えられるものがあり、70度の傾斜を示す。
この層の長野市における構造を調べると、下部の中尾山・小市などに分布している水冷破砕岩は、走向北東で、見かけ上北西あるいは南東に20~30度傾いているが、その直上に分布しているシート状溶岩層(やはり水冷破砕を受けている)は、ほぼ水平に近いので、これらは前置層に当たるものであると考えられる。城山西方の道路沿い、小市西方のゴルフ場の西の崖などでは、走向北東で、北西へ60度の急傾斜を示す。下部と上部とは安茂里(あもり)付近から西に延びる断層で接している。
上部の構造も、おおよそ下部に近い。
富沢(1956)は、小市付近の下部層中から、直立したクリカシ属(Castanopsis)の珪化木化石(けいかぼくかせき)の産出を報告している。
放射年代については、6.1±0.4Ma(カリウム-アルゴン年代;加藤,1983)、7.5Ma(フィッション-トラック年代;山岸ほか,1984)の二つが得られている。
600~700万年前のこの層を全体としてみると、下部については、一部にはクリカシ属の茂る小島が存在し、まわりの海底では、南西から北東に配列するいくつかの小型海底火山体が存在して旺盛な火山活動が繰りかえされ、ときには噴煙を海面上にまで噴きあげて豆石の降下をもたらすような激しい爆発的噴火があったことがわかる。上部はより火砕岩質で、やはり旺盛な火山活動がつづいたことになる。
浅川真光寺西方の溶結した降下堆積物は、火口付近の陸上に堆積したものが、傾動したものであろうが、くわしい海陸分布の復元はまだできていない。