倉並地すべり地は七二会(なにあい)地区にあり、犀川の左岸、矢沢の谷頭に位置する。この地すべり地は標高540~910m、延長1,450m、最大幅600m、地すべり防止区域面積は61.9haの規模をもつ(図2-20)。
地すべり地の上部には、標高850~870mと910~920mに2段の緩斜面が発達する。これらは、高位段丘面より古い地形面という意味で大峰面群と呼ばれている。1847年に発生した善光寺地震のさい、下段の緩斜面が大崩壊し、大量の岩塊や土砂が図に示したK3滑落崖の上方までの一帯に15~45mの厚さに堆積した。その土量は約270万m3と推定されている。この大崩壊により、下方山腹にあった倉並集落の22戸が埋没し、60人の死者を出した。現在の集落はこの崩積土の上に復旧されたものである。
地すべり地をとりまいて東側に東沢、西側に矢沢がある。地震の前には、東沢は倉並集落内を流れ、それから標高760mの位置まで上方に延びていたが、地震のさいの崩壊によって上流部が埋没した。このため東沢の流水は、その後大部分が伏流水となり、一部が集落中央から東側の各所に湧出していた。また、矢沢は市道との交差部付近から上方では、沢の形態を失い、浅い水路となっている。これも上方からの地すべり土塊により矢沢が埋積されたためである。
地すべり地は、現在の滑動状況から、4ブロックに大別される(土尻川砂防事務所,1992)。このうち、現在もっとも変動のいちじるしいⅠブロック(倉並集落の下方約800m間)は、明治20年代ころから変動が認められている。はじめはK3斜面東側の区域でいちじるしかったが、その後1908年(明治41)に現在のK3滑落崖(がい)の位置にいちじるしい亀裂が発生し、その南側が徐々に沈下を始めた。K3滑落崖は延長300mに達するが、ほぼ直線的に延びていること、南側の沈下はいちじるしいが、北側への後退はいちじるしくないことが注目される。現在、このブロックに深層地すべり(岩盤地すべり)が発生しており、地すべり面はK6滑落崖下方の地すべり地中央部では、深さ22mの風化泥岩層内にある。対策工事は地下水排除工を主に、その安定化を目ざしておこなわれている。
K1滑落崖の下方からK3滑落崖までのあいだをⅡブロックとしているが、このブロック下部が埋積されたところで、そのさいの地表水、地下水の変化により、Ⅰブロックの地すべりが発生したとみられている。Ⅱブロックは現在、ほとんど変動が認められていない。Ⅲブロック、Ⅳブロックは浅層型の地すべり地で、間けつ的に変動を起こしている。
地すべり発生地は陣場平(じんばだいら)山(1,257.5m)の東南山腹に位置している。上部のK1、K2滑落崖は荒倉山火砕岩層の最下部に当たり、その下位には泥岩を主とする大久保層が分布する。この泥岩層には火砕岩が多量に挟在(きょうざい)している。Ⅰブロックの基盤には論地層が分布する。
一般に、火砕岩層からなる山腹は急激な崩壊を起こすが、徐動性の地すべりは起こりにくい。しかし泥質岩が混在するときは、規模の大きな地すべりを起こす傾向がある。また火砕岩層中に地下水が貯留され、これと接する堆積岩との境界付近に大量の湧水をみるところも多い。倉並地すべり地は、このような性格をもつ地区の代表的なものである。
倉並地すべりの歴史は古く、Ⅰブロック内の人家には継続的な被害が生じていたため早くから対策が問題となっていた。そして「地すべり等防止法」(1958)が成立する以前から対策もおこなわれていた。しかし、地すべりの規模が大きく、機構も複雑なため、その防止対策に多大の苦労をしているところである。