松代群発地震

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1965年(昭和40)8月3日から始まったこの群発地震は、5年後の1970年末に、ほぼ沈静化した。1970年末までに震度1が57,627回、震度2が4,706回、震度3が429回、震度4が50回、震度5が9回観測された。有感地震総計は62,821回、全地震数は711,341回を数えた(図2-27)。1967年10月までの被害は、負傷者15人、住家全壊10戸、半壊4戸、一部破損7,857棟であった。


図2-27 松代群発地震の日別有感地震回数(気象庁地震観測所)

 群発地震活動はつぎの5期に分けられる。第1期は1966年2月までで、震源は皆神山を中心とする半径5kmの範囲内にあった。第2期は1966年7月までで、震源域が北東-南西の方向に広がり、地震活動がもっとも活発な時期で、地殻変動も活発になり、湧水・地割れなどの地表現象も発生した。第3期は1966年12月までで、震源域はさらに広がるが、皆神山周辺の地震活動は低下した。地割れの発達にともなう湧水により1966年9月17日に牧内地区に地すべりが発生し、民家11棟が押し倒されたが、これは事前に予測されたために人的な被害はなかった。このほかにも、いくつかの地すべりがあった。第4期は1967年5月までで、震源域が北東-南西方向に伸びて周辺部に活動が移り、中央部の活動は減少した。第5期はそれ以後で、活動は急速に衰えている。(図2-28)。なお、この群発地震活動にともなって、温泉の湧出量の変化や発光現象などの地震に関連した現象が観測された。


図2-28 松代群発地震の各活動期ごとの震源域の変化

 地震活動が長期化したために、住民の不安・恐怖、間接的な損害ははかり知れないものがあり、社会的に大きな問題となった。情報の混乱をさけるため、1966年4月25日に各機関の観測資料を検討し、統一見解を打ち出すことを目的とした北信地域地殻活動情報連絡会が発足した。この情報連絡会はのちに地震予知連絡会に引き継がれた。また、この地震に関する資料の収集・整理および提供等のために松代地震センターが設置され、1967年2月8日から業務を開始し、現在まで引きつづいている。

 山高く水清い長野市の地形・地質は、地震、火山、気象によって形成されてきたものといえる。これは、わが国が地球上の変動帯、造山帯に位置しているためである。被害をともなう地震の発生自体はさけられないが、その発生は同一地域では頻繁でないので、地震のリスクを不断に忘れず、過去の被害地震の教訓、地震の調査研究の成果を活用して、山岳地域としての特徴のある地震対策が推進されることが望まれる。