(2) 米作日本一表彰事業からみた生産力

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 日本の米は、昭和40年代に入り自給率が100%に達した。その後、米余りがつづいたのでこの改善のために、政府は全国水田面積の約30%を毎年米以外の作物に転換するように指示し実行させて、現在にいたっている。

 しかし、戦後の日本では食料不足は深刻な問題であった。これを解消する運動の一つとして、朝日新聞社は1949年(昭和24)から20年間にわたって「米作日本一表彰事業」をおこない、米の増産に協力した。表3-15は、その間に市域から出品して県下で20位以内に入賞した多収穫の記録である。


表3-15 長野市の水稲多収穫の記録

 すなわち、市域の平均単収や最高収量は、必ずしも県平均に比較して高くはないが、気象をはじめ各種の災害による被害率が少ない。

 そして500~750kgの範囲で推移し、とくに平成5年の大冷害の年には逆に県平均を上回るなど、比較的安定した収量を維持している。

 このなかで、1958年(昭和33)に松代町の宮本正己は市域歴代1位の763kgをあげたが、この年県1位になった北原昇の1,026kgにはおよばなかった。しかし市の最高収量は、つねに平均単収の約1.5倍と高いことから、増収の可能性がきわめて高いことをうかがい知ることができる。


写真3-86 水稲の収穫(松代町岩野)