開拓地の位置と概要

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戸隠行きのバスが芋井を登りつめた銚子口(ちょうしぐち)停留所を右に行くと、飯縄山麓(いいづなさんろく)に高原野菜の栽培が盛んな栄峰地区がある。その東方にはゴルフ場や別荘、牧場、スキー場などがつづいている。この地域と大豆島(まめじま)にある長野飛行場跡地は、1945年(昭和20)の敗戦後に食糧増産と海外引揚者や軍人、失業者の救済を目的に、緊急に造成された開拓地(図3-22、表3-19)である。


図3-22 開拓地の位置
(開拓40周年編集委員会編(1988)『開拓40年誌』による)


表3-19 開拓地の概要

 筆者は1953年(昭和28)から長野県農業試験場に勤務したが、最初に従事した仕事は開拓地の土壌調査と、土壌改良試験であった。その関係で、1955年(昭和30)にこれらの地区を訪れた。

 1988年(昭和63)に発刊をみた『開拓40年誌』には栄峰・飯綱・長野(飛行場跡)の3ヵ所の開拓農協のようすがのっている。これらの開拓農協は、昭和40年代後半に初期の目的を果たして解散した。

 栄峰開拓地は、更級郡出身の青少年を主体に21人が、食糧増産隊として入植した。電気は1948年(昭和23)に、簡易水道はようやく1962年(昭和37)に設置された。1965年(昭和40)以降は機械化され営農形態は雑穀・酪農から高原野菜に切りかえられた。


写真3-90 栄峰開拓地の現況

 飯縄開拓地は99%まで村有のカラマツ林で諸問題があり、1951年(昭和26)になって初めて開墾に着手できた。当初の栽培作物は、雑穀のみであったが、現在は野菜と酪農が営まれている。

 ここには、搾乳牛と肉牛四百余頭を飼育している、県下で最大規模の協業牧場がある。

 長野開拓地は飛行場跡という特殊条件と、市街地に近いことから、一戸当たりの配分面積は80a弱と少なかった。また飛行場としての機能を高めるために多量の砂礫(されき)が搬入されたので、その除去がたいへんであった。この地域は1984年(昭和59)に市街化区域に編入され、現在は都市化が進み、開拓地の面影がなくなった。


写真3-91 旧長野(飛行場跡)開拓地の現況

 そのほかの開拓地は離農と一部出作(でさく)の形態が進み、かつての集落が消滅してしまっている。