長沼地震と地下水変化

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前島信は1953年(昭和28)、卒業論文「長沼村における地下水の地球化学的研究」で、長沼地域の井戸水を中心に671ヵ所の水質調査をおこなった。そのなかで、長沼地震と赤沼の地下水変化についてつぎのように考察を加えている。

 1941年(昭和16)7月15日の長沼地震の震央部は、赤沼東部の千曲(ちくま)川左岸と報告されている。震源の深さは5.6km前後と推定されているが、この地震によってもっとも被害の大きかったのは赤沼地籍である。

 赤沼では太田神社東側の道路に平行して北北東~南南西に小亀裂(きれつ)が走り、砂まじりの水が吹きだした。古川池(源助溝)付近には5mくらいへだてて数十mにわたって幾条もの亀裂が生じた。なかには裂間が150cmにおよぶものがあったという。また、赤沼の北部から東部にかけての果樹園の灌水(かんすい)用井戸でも、多量の砂が水とともに噴出したり、その後渇水や減水などの異状が認められた。このような地下水の異状は、赤沼北半部の民家の井戸でも起きていたという。

 このように赤沼北半部の地下水は、きわめて異状の変化が認められたにもかかわらず、倒壊家屋・半壊家屋などの被害は比較的軽微であった。

 これに対して、赤沼南半部はその被害がきわめて激しく、倒壊家屋3、半壊家屋も非常に多く、死者2人を初め多くの重軽傷者を出したにもかかわらず、地下水の異状は認められなかった。

 このいちじるしい対照を一線をもってみるとき、ほぼ等水位線図の尾根の北沿いにあり、この東北東~西南西の方向は、赤沼から被害のとくに大きかった南郷(みなみごう)~東条~徳間を結ぶ方向と一致しているという、興味深い事実を明らかにしている。

 前島はさらに、赤沼北半部の家屋などの被害が軽微であった要因は、地下水の緩衝作用によるものと考察を加えており、地下水が長沼地震の震度の大きさに大きく影響をおよぼしていることを突きとめている。

 また、赤沼北半部の多くの井戸が渇水や減水などの異状を来したのは、圧縮振動によって不浸透層に亀裂が生じ、帯水層に存在していた地下水が漏水したものと結論づけている。


図4-22 赤沼の地下水位と地震被害状況
(前島信(1953)による。上図は一部修正)