1 沿革

207 ~ 209

 日本は世界有数の温泉国であり、日本人は世界にまれな入浴好きの民族であるといわれている。とくに入浴する湯が温泉であれば、ふつうの風呂の効果のうえに、さらに成分による治療効果も期待できるとあって、温泉への関心は格別大きい。温度の高い温泉のない地方では低温の鉱泉にまで目が向けられ、多くの鉱泉が知られ、また利用されてきた。

 長野市では温泉・鉱泉は、長野盆地の東西の山麓(さんろく)に集中し、西側では南から北に向かって石川・中尾山・保玉・平林・竜宮淵・茂菅(もすげ)・鑪(たたら)・善光寺・塩ノ湯・塩沢・山ノ神・伊香保・湯谷(ゆや)・ブランド薬師・長原・見晴し・田中などの湧出地が並び、盆地の東側には南から松代・加賀井・保科・綿内など温泉地がある。ほかには、市街地と飯綱高原に各1つみられるにすぎない。これらのなかには消滅したもの、放置してあるもの、そのまま使っているもの、加熱して旅館・老人憩いの家などで使っているもの、温泉に該当しないが伝承で使っているものなどさまざまなものがある。


写真4-39 綿内の温湯温泉蓮泉館(明治末期)
(『北信濃の100年』より)


写真4-40 善光寺温泉(昭和10年ごろ)
(『北信濃の100年』より)

 長野市関係の温泉で初めて化学分析されたのは、上水内郡芋井村(現長野市)大字鑪字木坊の「鑪鉱泉(冷)」で、1915年(大正4)4月のことである。その結果はつぎのように記録されている。

 性状は無色澄明にして弱アルカリ性反応を呈す。本鉱泉1kg中に含有する成分とその量は次のごとし。陽イオンはカリウムイオン0.01835g(以下イオンを省略)ナトリウム2.03624g、アンモニウム0.00212g、カルシウム0.05251g、マグネシウム0.03330g、フェロ(鉄(Ⅱ))0.00266g、陰イオンは塩化物2.20907g、硫酸0.00488g、ヒドロ炭酸(炭酸水素)1.95012g、硼(ほう)酸(メタ)0.05384g、珪(けい)酸(メタ)0.07388g、遊離炭酸0.68357g、総計7.12054g、泉質はアルカリ性弱食塩泉に属す。

 湧出地は茂菅の裾花橋上流の左岸で、旧善白(ぜんぱく)鉄道の2号トンネル入口の下の河原である。

 次は「鐘ケ瀬鉱泉(冷)」で、場所は長野市妻科字鐘ケ瀬。裾花川が旭山に行き当たって方向を変えるあたりは、山水の優れた景観の地で、旅館もあり竜宮淵鉱泉の名で親しまれていたが、今は跡形もない。1940年(大正12)12月の測定によるとつぎのようである。

 性状は殆ど無色澄明にして硫化水素臭及び僅微の鹹味を有し、微弱アルカリ性反応を呈す。

 この鉱泉に含まれている成分と量を次に示す。陽イオンはカリウム0.0078g、ナトリウム0.5277g、アンモニウム0.0007g、カルシウム0.0361g、マグネシウム0.0251g、アルミニウム0.0004g、陰イオンは塩化物0.5148g、硫酸0.0284g、ヒドロ燐酸0.0021g、ヒドロ炭酸0.7068g、次亜硫酸0.0063g、水硫0.0080g。硼酸(メタ)0.0189g、珪酸(メタ)0.0713g、遊離炭酸0.0605g、遊離硫化水素0.0033g、総計2.0182g、泉質は食塩含有硫化水素泉に属する。


写真4-41 竜宮淵鉱泉(昭和30年ころ)

 1950年(昭和25)長野市は、善光寺参りの客の便宜と今はやりの地域の活性化をはかるため、温泉を主とする地下資源調査を地質調査所の協力を得ておこなった。

 長野油田の名を冠する地質図(1938年(昭和13))があるくらいであるから、もちろん石油・天然ガスの出る可能性も見こんでのことである。

 調査所は同年11月地質調査、放射能、電気、磁気、地化学の各探査に着手したが、地化学調査のなかでは温泉・鉱泉その他異常と思われる水35ヵ所について、水温・pH・塩化物イオン(以下イオンを省略)・ヒドロ炭酸・炭酸・硫酸・遊離炭酸・硫黄・メタン・一部についてカルシウム・蒸発残渣を測定し、その結果市内の温泉・鉱泉などの異常陸水はおよそつぎの3種類に分類できる、としている。

1)塩化物イオン・ヒドロ炭酸イオンが多く硫酸イオンが少なく、メタンを伴うものが多い。pH=6.8~8.4、水温が高い。石油・天然ガスに付随する水に似ている。塩沢・塩ノ湯・善光寺温泉など。

2)塩化物イオンは極めて少ない。ヒドロ炭酸イオンは200mg/L内外、pH=8.9以上。硫化水素を10mg/L内外含む。水温は低く、アルカリ性が強い。水底に黒色の泥が沈殿していることが多い。浅川若槻方面に多い。

3)二酸化炭素ガスが多い。飯綱鉱泉など。

 松代町東条の加賀井・長礼(ながれ)地籍には、古来水田中にぬるま湯が湧出し、近在の人びとが野天風呂をつくって療養に利用していたという。大正の初めごろ掘削に失敗したが、昭和の初年に成功して多量の湯を得、旅館を経営するにいたった。昭和30年代以来掘削があいついでおこなわれ、古いもの、未利用のものを含めれば総数7本である。この地一帯の温泉は松代群発地震の影響を強く受け、湧出(ゆうしゅつ)量においても含有成分の濃度についてもいちじるしい変動をきたした。